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大村藩の陶磁器生産地 | ||
長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷 | ||
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四方を小山に囲まれた小さな谷盆地の町で、波佐見街道の宿場町として、また陶磁器生産の町として知られています。 波佐見焼の歴史も佐賀藩の有田焼と同じく、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に、大村藩主大村喜前によって連行されてきた朝鮮陶工によって始められました。 波佐見は大村藩の保護によって発達しましたが、他国への輸出は佐賀藩の伊万里津から積み出されていました。その為ほかの地域の焼き物同様に波佐見焼も伊万里焼として扱われ、また明治以降は有田駅から鉄道によって運ばれた為に今度は有田焼となり、波佐見焼の名で呼ばれるようになるのは近年になってからの事です。 波佐見焼は当初は陶器のみの生産でしたが、三又地区で陶石が発見され、また文政11年に佐賀藩の一大陶磁器生産地・有田で発生した大火災によって流出した陶工がこの地で磁器生産を初めたころから盛んになりました。 波佐見焼として知られるものに大阪は淀川の「くらわんか茶碗」と長崎の「コンプラ瓶」があります。コンプラとはポルトガル語で“仲買人”という意味で、長崎の貿易商社「金富良商社」との特約により、40万本ものコンプラ瓶が波佐見で生産され、醤油を詰めて海外へ輸出されました。 「くらわんか茶碗」とは、京と大阪を結ぶ大動脈・京街道と淀川水運の拠点である枚方宿を中心に行われた、旅人相手のいわば飲食店の押し売りで、淀川を行き来する舟客に舟で詰め寄り、「めし食らわんか」「酒食らわんか」といって軽食を販売していました。それに使用されていた茶碗が波佐見で作られたものです。 波佐見街道は波佐見を中心に四方に延びる往還の総称で、宿場町の規模はそれほど大きくは無かったようです。 現在の波佐見町で往時の面影を残すのが、地酒「六十餘洲」の今里酒造がある裏通りです。今里酒造の酒蔵も文化財に登録されています。外観は少し改修されていますが、老中田沼意次の時代より創業約200年の歴史を感じさせます。 波佐見町はあまり聞き慣れない小さな町ですが、この今里酒造の酒は少し甘口ながら全国的に知名度を上げている蔵であります。 |
大里酒造の店蔵は登録文化財 |
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