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  大村
おおむら
 大村藩大村氏2万7000石の城下町・長崎街道の宿場町
 長崎県大村市玖島

 構成:武家屋敷 ■ 駐車場:なし

 
大村は大村湾南東部に位置する小さな城下町で、長崎街道の宿場町でもあります。
この地を支配した大村氏は鎌倉期の地頭に始まり、秀吉、家康の時代と所領を安堵され明治まで終始一貫して続いた数少ない大名家でした。

しかし一国を支配する大名としてのデビューは遅く、戦国時代にその地歩を固めるにいたります。ここで一門、家臣団の統制に苦慮した大村氏はキリスト教による思想統一を目指し、さらに長崎における諸外国との貿易を有利にするためにキリシタン大名となり、家臣・領民にもキリスト教への入信を義務づけました。
天正15年、豊臣秀吉による九州仕置の際に初代藩主大村喜前は旧領を安堵されるものの、長崎は収公され財政基盤を失った大村藩は困窮します。
そこで大村藩は、宗家の権力を不安定なものにしていた一族上級家臣を追放し、権力回復と直轄地を増やして財政の建て直しを行う一石二鳥の「御一門払い」と言われる政策を施行しました。
戦国時代にいち早くわが国初のキリシタン大名となった大村氏は、幕府の禁教令以後は180度転換してキリスト教徒の弾圧を行った為に、家臣の反発を買い初代藩主大村喜前は毒殺。次の純頼も謎の死をとげ改易の危機に見舞われますが、かろうじて存続を許され12代続いて明治を向かえます。幕末には倒幕派が実権を握り新政府軍に参加。明治以降は軍都として栄えますが、戦後は急速に衰退して行くことになります。

大村の歴史的なシンボルである玖島城は現在大村公園として整備され、大村湾に突き出すようにそびえ立ちますが、当時はもう少し海に浮かぶような姿だったらしく文禄の役の際に朝鮮半島で見た海城をモデルにしたと言われています。
城下を長崎街道が通り、その周辺に町人町が形成されていた様ですが、今は見事なまでに往時を偲ばせる建物は残されていません。ただし、商店街のアーケードには「長崎街道・大村宿」の看板が掲げられ、その場所を伺い知ることができます。

その東側の丘陵地に武家地が広がり、草場小路・上小路・本小路・小姓小路・外浦小路などの名称が今も残されています。大村藩玖島の武家屋敷は南九州に良く見られる石垣と生垣からなるもので、母家は更新されていますが外郭だけは残されていました。
大村独特のユニークな石垣に、草場小路の五色塀があります。海から運んできた様々な色の石を漆喰で練積にしたもので、いかにも本州西端の武家屋敷らしい情調を漂わせていました。ただし、残念ながら伝統的な建造物は残されていません。