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  島原
しまばら
 雲仙普賢岳で知られる島原藩松平家6万9000石の城下町
 長崎県島原市下の丁・上の町

 構成:武家屋敷・商家 ■ 駐車場:観光P

 

島原は江戸時代の城下町に始まる島原半島東部に位置する文化経済の中心地。1990年、実に198年ぶりに起こったの雲仙普賢岳の噴火によって、天草四郎による島原の乱以来、再び全国にその名を知られれる様になりました。
かつて島原を拠点に肥前を支配した有馬氏は、はじめ鎌倉・南北朝期には一在郷豪族にすぎませんでしたが戦国期に頭角を現し、日野江城(北有馬町)を拠点に全県下を手中に収めます。
有馬晴信は関ヶ原の戦い後も旧領を安堵されますが、慶長7年(1612)岡本大八事件によって失脚。その子直純は特別に継封をゆるされ日向延岡に移封します。
しかし家臣の中にはこれに従わず島原に残るものが多く、後の「島原の乱」の指導層となっていきます。
替わって板倉重政が入封し、居城を日野江から島原へ移します。この城下町移転事業に伴う領民へ対する過酷な重税に加え、キリシタン弾圧に端を発して寛永14年ついに島原の乱が勃発します。一揆というにはあまりに大規模な反乱は九州諸大名だけでなく幕府軍の連合軍をもって3ヶ月をかけて平定。この責により板倉氏は改易され、島原には領内の監視と戦後復興の為に有力な譜代大名家が配されます。
ます高力忠房が入封します。しかし先の島原の乱で300万人とも言われる領民の大半が失われた為に領内には無人の村々であふれ、荒廃した人心や領内の復興は容易ではなく、忠房は改易。
次に松平忠房が6万9000石で入封。一時期戸田家と入れ替わりますが再度松平家の支配で明治を向かえます。島原半島の一集落にすぎなかった島原地方は、築城後半島の政治・経済・文化の中心となり、さらに松平氏によって「島原7万石」と呼ばれる城下町へと発展します。

島原は湧き水の町としても知られ、古くから清酒、焼酎、醤油などの醸造業が盛んで、特に「島原酒」と呼ばれた清酒は九州で最良と言われていました。しかし、現在市内に残る酒蔵は1軒のみしかありません。

町のシンボルである島原城は、明治4年に焼失し戦後に復興されたものです。
その島原城の西側に武家屋敷が残されています。かって鉄砲町と呼ばれていた下級武士の武家町で、南北に6本の平行した町割りと道路中央に設けられた水路で知られています。かってはすべての路地に設けられていましたが、現在は1箇所しか残されていません。この水路は川奉行が管理を行い、飲料水などの上水として使用されていました。水路の底には漆が施され上には瓦を伏せたといわれています。

 

 

 
島原の酒蔵          
清酒 まが玉 山崎本店 長崎県島原市白土町1065 0957-62-2175