国東半島の付け根に別府湾を見下ろす小さな城下町があります。JR日豊本線の駅で言うと実は「日出駅」ではなく「暘谷駅」がそれ。鏝画のある町としても知られる日出は、江戸時代に日出藩2万5000石の城下町でした。
冒頭で”海を見下ろす”と書いたように、日出の町は高台に形成されています。この地形を利用して暘谷城と称される日出城は海に面して築かれました。別府湾に突き出すように築かれた石垣が残る暘谷城址には日出小学校・日出中学校が建っています。
その周辺に武家屋敷の遺構がわずかに見られます。城の西側にある旧藩校「致道館」も海が見える場所に保存されていました。
この暘谷城周辺の海岸を俗に城下海岸と呼びます。この一帯は海底から真水が湧き、ここで育った良質なマコガレイは「城下かれい」のブランドで知られています。
姿は他の場所のかれいと大きく異なり、尾ヒレが広く角張らず、形が丸々して頭が小さく、江戸時代から珍重され、庶民が食べる事が禁止されたほど。別名「殿様魚」とも呼ばれていたとか。将軍家への献上魚でもありました。
暘谷城址の東にある日出を代表する高級料亭「的山荘」は、上級武士の邸宅を思わせる佇まいに別府湾を借景とした庭園で知られ、地元の味覚を堪能できます。
城の北側、町を東西に走る道筋に形成された商店街がかつての町人町か。伝統的な家並みはほんのわずかで、その多くは商店街から外れた西側に見られます。
日出藩の藩祖である木下延俊は、豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)の兄・木下家定の三男で、関ヶ原の戦いの際には姫路城代を務めていました。家定は細川忠興と義兄の関係であった為に、木下家のなかで唯一東軍に寝返り、戦後徳川家康から豊後国日出藩3万石を与えられます。2代俊治の時に弟の木下俊次に5000石を分与した為、以後2万5000千石となり、藩は江戸期を通して16代続き明治を向かえます。
ちなみに5000石を与えられた俊次は、本家の意向に背いて幕府へ工作を行い、独立した藩として、身分は交代寄合旗本のまま立石藩を立藩させます。
豊臣氏宗家である羽柴家は大坂夏の陣で滅亡しましたが、この木下家もまた豊臣の姓を持つ一族であり、それが取り潰される事なく幕末まで存続したことは歴史の謎でもあります。
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