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  杵築
きつき
 丘陵の武家屋敷と谷間の町家・坂の城下町・能見松平家3万2000石
 大分県杵築市杵築

 構成:武家屋敷・町家・商家・寺町 駐車場:観光P

 
 

国東半島の付け根、別府湾と伊予灘に臨み高山川と八坂川にはさまれたデルタに形成された城下町・杵築。古くは木付と書きましたが江戸中期から杵築となりました。

海岸線を走る国道213号線が杵築大橋に差しかかると、島の様な山の上に建つ杵築城が出迎えてくれます。天守閣は昭和45年に復元されたものです。杵築城は中世木付氏によって築かれ、豊臣秀吉の時代に城主となった杉原氏によって大がかりに手が加えられました。
木付氏が築いた当初の杵築城は守江湾に浮かぶ孤島の城でした。大潮のときだけ陸続きになっていたそうで、フランスのモンサンミッシェル修道院を思わせます。
江戸時代に入ると杵築は小倉藩小笠原家の支藩となり、小笠原忠知が4万石で入封。その後同じく小笠原家から能見家に養子に出ていた能見松平氏が3万2000石で入れ替わり、以後代世襲して明治を迎えます。
今に残る城下町の本格的な整備が行われたのは、この能見松平家の時代です。

杵築の城下町は、杵築城の西に連なる南北両台地上に上級家臣の武家屋敷が区画さ
れ、間に挟まれた谷あいに町人町が形成されました。さらに、城下への入口にあたる現在の杵築市役所の南側、南杵築地区に寺町と中・下級武士の屋敷を配して防衛線をとっていました。
杵築の商人は株制度による特権的専売制度によって栄え、港は東九州有数の商港として発展しますが、明治を迎え自由競争の波にさらされると杵築商人は急激に没落していきます。

杵築は城下町の要素と立体的な景観が絶妙に組み合わさり、非常に見応えのある街並みや風景が残されています。ただし、谷間に形成された町人町は、道路の拡幅と再開発によって古い建物は壊され、もしくは移動改修されて「新しい」白壁風の町並みに姿を変えていました。