長洲は国東半島の西の付根、周防灘に面した小さな港町であり、宇佐市を東西に分ける駅舘川(やったて)河口の右岸に開けた古い歴史を持つ港町です。
藩政期の長洲は豊前国にありながらも、肥前島原藩領の港として長洲会所という名称の代官出張所が置かれていました。こうした飛び地は、藩主の参勤交代や物資流通の為の外港として、特に海に接していない内陸の藩には必要不可欠であり、当時の日本の各地に見ることができます。島原藩は内海の有明海に接していましたが、江戸や上方(大坂・京都)に最短の玄関口として豊後にこうした領土を有していたものと思われます。ちなみに、宇佐市に隣接する現豊後高田市の高田も島原藩領であり、こちらには豊州会所が置かれていました。
宇佐神宮造営の際の木材もこの長洲から陸揚げされたと言われ、古くから栄えた港町であったであろう事は、現在も残る4軒の酒蔵がそれを如実に物語っています。
ちなみに酒造業に限った資料では、明治から昭和にかけては13軒もの蔵があったと言われており、水質や材料の米が集まった事以上にそれを支える需要があったのは確かでしょう。
江戸期の長洲は幾度もの大火を経験しており、現在見られる伝統的な町家の多くが入母屋造りの土蔵造り・塗籠造り。戸袋に施された鏝画などからも、これら建てられたのはほぼ明治期以降のものと思われますが、さらにそれらが非常に良い状態で残されており、昭和の時代までこの港町が繁栄していたであろう事がうかがえます。長洲の町家に見られる入母屋造り妻入りの家と平入りの家が一つに繋がる様式は周防灘で結ばれた山口県周防地域にも数多く見る事ができ、海運を通じての文化的交流があったのではと思われます。
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