現在「有田焼」で知られる陶磁器の町・有田は日本の磁器誕生の地であり、また伝統的な商家の町並みが残る町でもあります。
初期の有田は深山幽谷の地で、集落すらありませんでした。この地が大きく変わるきっかけになったのが、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)でした。
この戦争で、佐賀藩主鍋島直茂は多くの朝鮮陶工が日本に連行されてきます。その中の一人、李参平(初代金ヶ江三兵衛とされる)が17世紀初頭に泉山の白磁鉱を発見したのが最初とされ、以後佐賀藩の保護育成のもと陶磁器の生産は拡大し、有田は一大窯業生産地へと発展します。
しかし陶磁器生産のピーク時になると領内の各地に窯場が乱立。燃料として使用する木材の伐採による山野の荒廃と陶石の保護から、佐賀藩は窯場の統制と整理を断行し窯場は有田と伊万里に集められます。この時、大木村にあった有田郷代官所が有田皿山に移され、有田は佐賀藩の厳しい管理下に置かれました。
文政11年(1828)の大火災は有田の町をほとんど焼き尽くし、復興は行われたものの、陶工の流出は防げませんでした。今に残る有田の町並みはこの復興の時期に整備されたものが基盤となっています。
有田で造られた有田焼は伊万里の港から船積みされた為に、長い間「伊万里焼」として海外や国内に輸出され人々に使われてきました。今に知られる「有田焼」のブランドが確立するのは、明治30年に九州鉄道長崎線の開通を待たなくてはなりません。陶磁器の輸送が伊万里港からの海運から鉄道輸送にシフトすると、有田がこの地域における陶磁産業と流通の中心となり、「有田焼」と「伊万里焼」の地位が逆転したのです。したがって明治以降の「有田焼」に対して、伊万里から積み出された時代の有田焼を「古伊万里」と呼びます。
山間に残る有田の町並みは、伝統的な建物が隙間無く建ち並び、見事なものがありますが、どこかレトロ感が入り交じる異風な町並みでもあります。
それは江戸時代に建てられた白壁土蔵造りの建物と明治・大正以降に建てられた黒漆喰の重厚な商家や三階建ての擬洋風な商家建築、さらに平入りや妻入り建築が入り交じる、さまざまな時代建築のオンパレードでどこか町並み博物館の様相を呈しているからです。
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