「伊万里焼」などの陶磁器で知られる伊万里は古くからの天然の良港で、藩政時代に有田などで作られた陶磁器の唯一の積出港として繁栄した港町です。
現在、伊万里市の中心部に伝統的な建物は完全に姿を消していますが、当時は川沿いや街道沿いに陶器商人の商家や蔵が建ち並んでいたといいます。
陶磁器の移出が活発になると、密輸を行う商人も増えた為に、佐賀藩は元禄年間に伊万里心遣役を設置し、有田皿山代官との連携で密輸販売などの取り締まりと秩序の維持に努めます。さらに、国内販売の取り締まり統一のために伊万里市場でのみ取引することを定めました。
一方、有田南川原山にあった鍋島佐賀藩御用細工窯を大川内山に移転。有田焼き技術の秘密保持が行われました。窯場集落の入口には番所が置かれ、人の出入を厳しく監視し、職人による無許可の技術指導まで禁じられていました。
主に有田で生産されていた有田焼は伊万里の港から船積みされた為に、伊万里焼として知られていました。今に知られる「有田焼」のブランドが確立するのは、明治30年に九州鉄道長崎線の開通によるもので、有田駅の開設によって陶磁器の集散地が伊万里港から有田へ完全にシフトし伊万里港の衰退が始まります。有田で生産された陶磁器が直接現地から運び出されるようになると、「有田焼」の名が広がる事になりました。その為、明治以降の「有田焼」に対して、伊万里から積み出された時代の有田焼を「古伊万里」と呼びます。
現在の大川内山は中心部から遠く離れ、隔絶された集落ですが「伊万里焼」の振興と観光誘致の為の整備によって更新され、歴史的な古い建物はほとんど残されていません。しかし、集落中に立ち上がる赤煉瓦の煙突群と集落の背後にそびえる、中国の水墨画で描かれるような奇岩との風景がこの窯場を特別なものに演出しています。
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