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唐津藩小笠原家6万石の城下町 | ||
佐賀県唐津市魚屋町・大石町・大工町 | ||
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魚屋町の東木屋酒造場 |
「唐津」は字の如く「唐(中国)」へ通じる「津(港)」の意味で、古くから国際港として栄えた町でした。 安土桃山時代に茶道茶道における茶碗の分類で「1楽2萩3唐津」とされる様に、 日本の3大焼き物の一つに数えられる唐津焼は、同じく肥前の伊万里や有田同様に 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連行してきた朝鮮陶工たちによって始められました。 佐賀藩の財政を支える重要産業であった陶磁器生産において、主に輸出用に分業の工業製品として発達した伊万里や有田焼に対し、昔ながらの製法で作られる唐津焼は、わび茶碗として茶人や大名に人気がありました。 陶磁器生産がピークを迎えると、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となり、鍋島藩は窯場の統制と整理を断行、窯場は有田に集約され唐津は甚大な影響を被りましたが、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため「茶器」に限定した特殊な御用窯として存続します。 唐津は国際港であると共に、古くからの城下町でもありました。 唐津藩祖は豊臣恩顧の大名寺沢広高で、名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を有していましたが、関ヶ原の戦いでは家康に与して、天草4万石を加増され、12万3000石を領する大名となりました。しかし2代寺沢堅高のときに発生した島原の乱が天草にも飛び火し、その責で天草を没収されます。唐津藩はさまざまな問題を抱え、藩主堅高は心労により自殺。堅高には嗣子がなかったため寺沢家は改易となります。 その後、大久保忠職8万3000石、松平乗久7万石、土井利益7万石とめまぐるしい変遷の末、水野忠任が三河国岡崎藩より移されて7万石で入ります。 4代水野忠邦は幕閣入りを熱望していましたが、唐津藩は長崎警備を担当していたために叶わず、忠邦は有名な「転封運動」を行います。各方面に賄賂を贈り、ついに願い叶って遠江浜松へ5万石に減りながらも転封を実現し、その後老中となって水野忠邦時代を築いていきます。この運動は藩の財政に重くのしかかり、さらに実高20万石とも言われた唐津藩から5万石への転封は、家臣の反発を招きます。 最後に陸奥棚倉藩より小笠原長昌が6万石で入り、以後小笠原氏の支配で明治を迎えます。最後の藩主・小笠原長行は幕末期に老中・外国事務総裁を兼任して幕政を担い最後まで幕府に忠義を尽くした為に、後にその存在を抹消されてしまいます。 現在唐津には寺沢広高によって築城された唐津城や名勝・虹の松原、そして「唐津くんち」などの観光資源は多く残されていますが、市街地に藩政時代の古い街並みはまったくと言っていいほど残されていません。 駅前市街の東側、魚屋町から呉服町にかけて僅かですが伝統的な商家建築がひっそりと残されていました。中でも魚屋町に残る東木屋酒造場の重厚な商家は、おそらく江戸期の物ではないかと思われますが、老朽化も目立ち早急な修繕と保存が臨まれます。 |
大石町の町並み |
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東京駅や日本銀行本店を設計した近代建築の重鎮辰野金吾は唐津出身。明治45年築の旧唐津銀行は弟子の田中実氏の設計。 |
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