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佐賀藩鍋島家36万石の城下町 | ||
佐賀県佐賀市八戸 | ||
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八戸(やえ)枝梅酒造の、のこぎり型の家並み |
佐賀鍋島藩36万石の城下町・佐賀は戦災に遭わなかった為に県庁所在地としては数少ない街並みや史跡が多く残ってる町です。現在知名度ワーストの首位を争う県であり、戦時中も重要な攻撃拠点ではなかったのかもしれません。 しかし、佐賀はかつて日本で最も進んだ地域でした。幕末の名君・鍋島直正は有田焼を保護育成し、その貿易によって藩財政を立て直します。さらに日本初の西洋式反射炉を建設。最新式の銃火器の生産や日本初の蒸気機関式軍艦を建造、軍備を拡大し明治維新に備えました。佐賀藩の近代的な軍事技術無くして明治維新は為し得なかったといいます。 佐賀城東側の水ヶ江は武家屋敷地区で、明治の重鎮大隈重信の屋敷などがありますが、町並みは残されていません。佐賀市域で最も往時を偲ばせるのが八戸と書いて「やえ」と読む旧長崎街道筋の町並みです。 長崎街道は小倉を起点に長崎へ通じる商業的要素よりも国防と外交における重要な街道でした。現在の国道24号線を踏襲する長崎街道は佐賀城下手前の巨瀬町牛島の溝口交差点から旧道に入ります。道なりに進み松原で行き止まり、標識にしたがって左折、またすぐに右折、左折を繰り返します。地図を見るとわかりますが、街道は佐賀城を遠く迂回するように引かれています。佐賀城は秘密施設であり遠見することを防ぎ、また城下での市街戦を想定した区画になっているのです。八重にはいるとのこぎり型の家並みが続きますがこれはそれそのもです。 とはいっても、こんな「あみだくじ」のような道筋をだれもが進むはずもなく、ある程度は碁盤の目の区画になっている城下町。通行する商人などは適当にショートカットして進みます。それを取り締まるため至る所に門戸や番所が設けられ取締が行われましたが、いたちごっこだった様です。 旧長崎街道筋の八戸の家並みはノコギリ状に各家が斜めにずらして建っています。これは市街戦を想定した城下町の特徴で、兵士がこの家の陰に隠れて応戦するものです。 北九州を制覇した戦国大名龍造寺家の家老だった鍋島直茂が、没落した龍造寺家から合法的に政権を簒奪した後に建設した城下町佐賀。一体何に備えたものなのでしょうか? |
現役の薬局・屋形看板が往時を偲ばせます |
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