白石は六角川下流に干拓によって開けた農村地帯。
その西方に堤集落があります。堤は古くは須古と呼ばれ、中世に須古城が築かれました。その後肥前の領主となった龍造寺氏によって須古城が修築され、町場も整備されます。堤には旅籠や商家が並ぶ白石平野西部の中心街村に発展します。
散居集落の多い白石平野において、街村を形成している堤の三町南地区には白壁の商家が立ち並んでいます。
干拓によって拡大した白石平野は古くから深刻な不足が深刻になやまされ、武雄や北上にある貯水池から水を引いたりする大工事が行われました。堤にある嘉瀬川池やその北側にある永池池はその後江戸時代に作られた貯水池でそこから白石平野に縦横に水路が築かれていきます。集落の周辺には貯水堀も見られ環濠集落の雰囲気もかもしだしています。
白石にはもう一つ長崎街道の宿場町で栄えた六角宿があります。現在の地名で東郷字中郷がその場所です。JR肥前白石駅周辺がその場所ですが、現在は往時の面影を残すものは一切見られません。
鹿島や白石平野には数多くの茅葺き民家が点在しています。いずれも「くど造り」と呼ばれるもので、一見寄せ棟造りに見えますが、回り込むと「コの字」型になっているのが分かります。これは佐賀藩が2間(約3.6m)以上の材木の使用を禁じた為でその結果、部屋を増やそうとするとコの字型になっていきました。さらに追加されて「ロの字」型になったものを「じょうご造り」といいます。
こうなると、雨が降ったときに雨水が家の中央に溜まるので、家の中を雨樋が貫通して外に排出します。
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