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  人吉
ひとよし
 陸の孤島にして相良氏700年の城下町・肥後の小京都
 熊本県人吉市麓町・寺町・紺屋町

 構成:城址・武家屋敷・酒蔵(焼酎)・商家  駐車場:観光P・市役所P
 
 

熊本最南部、鹿児島と接する県境の深い山々にかこまれた盆地に温泉地で知られる城下町人吉はあります。地図を見ると分かるように、周囲を山で囲まれた人吉は古くから陸の孤島であり、日本三大急流の一つである球磨川が市内を流れるものの、水上交通が発達するのは江戸時代に入ってから。球磨商人・林正盛が私財をなげうって球磨川開削事業を行い、ようやく川船が通行可能となったのです。

人吉を治めた相良氏は鎌倉時代から幕末までの実に700年も続いた非常に珍しい大名家です。南九州の巨頭薩摩島津氏に国境を接していたためか、時流を読む先見の明があったのか、常に要領良く時代を切り抜けてきました。戦国期は島津氏の傘下、秀吉が九州へ侵攻すると一転秀吉に転じ豊臣大名へ。関ヶ原では東軍西軍に二股を掛け所領安堵。幕末は薩摩藩と同調し明治を迎えます。それらの歴史は藩主の判断だけではなく、優秀な家臣がいてこそ成し得た物ですが、玉虫色の体制は常に派閥を生み、両派による絶え間ない粛正の歴史でもありました。
政策の対立は常に大量殺戮へ発展し、しまいには藩主の暗殺までいきますが、日本最南端のしかも山奥の陸の孤島の出来事ゆえか、うまく処理して幕府の目をごまかしてきました。幕末・明治維新時の時には装備を日本式で行くか西洋式かという理由で対立し西洋派を惨殺するなど、荒々しい気風これはこの地方特有のものなのでしょうか?

人吉の街並みは江戸期の人吉藩時代に整備されたもので、球磨川を挟んだ北側に形成された町人町はその後、人吉の中心繁華街として、またネオンが輝く一大観光温泉地に姿を変えましたが、日光鬼怒川同様に時流に外れた寂れた町並みが残ります。

球磨川と胸川の合流地点に建つ人吉城跡は櫓と白壁の塀のみが復元されていますが、2万石の藩にしては大規模で相良氏の長い歴史を表しています。城跡は市役所になっていますが周辺は武家屋敷だったゆえか閑静な住宅地となっており、湯の町らしく温泉の銭湯が点在しています。
胸川にかかる大手橋を渡ると、球磨焼酎の酒蔵が集まる街並みがあります。武家町のそれも大手門の真ん前にあるのは、おそらく武家が没落した明治期以降に建てられたものでしょう。温泉で体を休め、公開している酒蔵もあるので見学しながらちょっと試飲。逆もまた良し。


 
積極的に蔵も公開している焼酎蔵
球磨川を挟んだ対岸の町人町は一大温泉歓楽街となり、古い家並みはほとんど無い
焼酎圏にあって稀少な清酒の看板を掲げた酒屋さん
市役所西の武家地区に保存公開されている武家屋敷