一路一会鉄道の旅・鉄路一会>桃太郎さん・鉄道の記憶

 
岡山県の桃太郎さんによる、稀少な時代写真とエッセイ。
掲示板に投降された記事を編集して、まとめました。

 
機関区に犬
写真をスキャナーしていたら機関区に犬がいる写真があった。 何で食べ物もないのに不思議である。 こんなの撮影した記憶も消えている。 どこも機関区は広いヤードをもっていた。広いし人もいないので夜捨てにくるのではないかと思う。
私はコンビナートの化学工場で電気担当として働いていた。コンビナートは海を埋め立てた地域なので深夜は人の通りは全くない。犬猫を捨てて帰る、ゴミ袋の残飯くらいしか食べ物はない。犬や猫の糞を見ると昆虫が結構多い。電気担当は動物に悩まされてきた。 電気設備は温かいので冬場設備にもぐりこむ、高圧電圧のため感電すると工場停止で大きな被害となる。猫と蛇で事故を発生させた。鼠は何でも食べるので工場でも生活できる。

歯伸び防止で電力ケーブルをかじられた事もあった。地下のケーブルピットは冬でも温かい棲みかであった。 ネズミ捕りを各地に仕掛け全滅させ後々も定期的にチェックしていた。 鳥類は対策が難しい、鳥は糸やステンレスのワイヤーを張ってあると寄って来ないが変電所は そんな対策は取れない、碍子を洗浄する高圧水でカラス、スズメを何度も噴射すると来なくなった。昆虫も注意がいる蛾が接点で潰され乾燥し絶縁物になり動作不良を起こした事もある。 電気設備は密閉にしないと動物や昆虫は防げない。
(2009/08/13)
 
通勤蒸気機関車
直方駅の構内の入替え用機関車C11に乗る国鉄職員 機関区や貨物基地で働く人は駅から1キロも二キロも離れているところがある。 駅から歩くと30分もかかるので入れ替え用機関車に乗り職場まで送ってもらっているところ こんな行為は就業規則違反、前に二人、後ろに一人乗っている。前の人はカバンをもって おおらかな時代の写真である。
(2009/09/12)
 
私が選ぶ近代化遺産
私が選んだ近代化遺産・・・・・残っていれば 函館本線 小沢駅構内にあった給水塔、なんともいい味をだしている。こんな古ぼけた時代の付いた物が大好き。しかし、一枚しか撮影していない。これを撮影したのは昭和46 年、その頃の風景は大正時代、あるいは明治のものも沢山残っていたと思われる。近代化遺産と注目を浴びる時代が来るのが判っていたならば何でも撮っておくのだったと思うのが人間の欲で浅はかなところ。
(2009/09/01)
 
駅での蒸気機関車交換風景
単線区間では衝突を避けるために区間に二台の列車を入れないようなシステムや運用をおこなっている。駅で列車を待ち進路方向に列車がいなくなって発車する。
上り列車と下り列車が駅で行き交う事を列車交換とよんでいる。
車両が故障して別の列車にすることは車両交換。
普通列車が特急列車に進路を譲るのは通過待ち(退避)と区分けしている。
(2009/07/18)
 
複線と蒸気機関車
伯備線清音駅付近、清音は倉敷市のとなりである。伯備線は一部複線区間がある。電化していなくて複線区間は電柱などなくすっきりしている。昔の東海道線が電化する前の京都山科のカーブの写真などみると素晴らしいとおもう。私が撮影していたころ複線で非電化は室蘭本線、千歳線、九州の筑豊線であった。九州は炭鉱の輸送量が多く他にも複線の区間があった。
(2009/0707)
 
特急気動車
気動車の特急の写真。これはキハ82系の特急気動車でしょうか。私は電車や気動車の形式はあまりわかりません。しかも白黒ですので色が分らないので判別が難しいところです。
伯備線が電化前で信号も腕木式の手動でポイントを切り替えていた時代のものです。
これは特急「おき」 特急は鳥名や星や音、光に関するものだったのですが、このころから地名を付けたのが出てきました。地名は急行だったのですが新幹線が延びて行き、急行より特急に乗せたい思惑からか急行列車が減りましたね、鳥や星の名前にも限りがあるので地域名がついたのでしょうか。
(2009/06/17)
 
蒸気機関車と茅葺き民家
過去に撮影したネガから蒸気機関車と茅葺き民家の写真をお届けします。伯備線 新見から神代方面へ登る三重連、後方を重連が押している三重連です。当初布原信号所近くに二軒茅葺き民家がありました。茅葺きを意識して撮影する人は少なかった。現在、鉄道と茅葺き民家が撮れる場所。因美線、岡山県加茂町、因美線智頭町、芸備線向原町、久大線玖珠町、石巻線涌谷町、西城町などですが、最近行っていないので情報確信がもてません。
(2009/05/26)
 
南延岡駅
南延岡駅の風景です。ホームにはディゼル機関車DF50の牽引する特急富士が停車しています。
これは蒸気機関車を主体に撮影したものです。特急が先に出ましたので特急を主体に撮影した写真もありますがどこに行ったかわかりません。ブルトレの富士は廃止になりました。
DF50はディゼル機関ですが一度発電してモーターで回す機関効率の悪いエンジンでした。速度制御が難しいのでこんな機関になったようです。昭和30年代のディゼルエンジン量産期のはしりの機関車でした。
(2009/01/30)
 
石北本線常紋


北海道石北本線常紋、山の上にある列車を交換するために設けられた停車場である。スイッチバックの機能も持っている。民家は周囲にはない、昼飯は買ってこないと店屋などない。今日もパンである。蕎麦とパンばかりでもう何日も飯を食べていない。夜行列車で移動し睡眠も兼ねている。まだ個室ビデオの方がよく寝られると思
う。金はなかったが体力だけはあった。

この日は天気が良かったので動けば暑いくらいであった。特急「おおぞら」と蒸気機関車の交換風景を撮影し
た。車掌がタブレットを持っている。まだ腕木式の信号機である。今となってはこんな光景を撮影していて良かったと思う。
特急の気動車キハ82は現役を引退して久しい。6年程前に智頭急行鉄道で鉄道ファンが列車の撮影をしていたので何を撮影しているか聞いたら国鉄時代の最後の特急気動車が廃止されるので撮影していると言っていた。

常紋から遠軽側に行くには常紋トンネルの中を通らなければならない。このトンネルは囚人を使い強制労働で造らせものでろくな食事も与えられず多数の犠牲者がでた。トンネルの中から今も悲鳴や嗚咽が聞こえると言われた。上り下りの列車を撮影するためにはダイヤを見ながら何回もこのトンネルを往復しなければならない。
列車の去った停車場は自分と駅員しかいないのかと思ったら山の上から二人先客が降りてきた。雪山を登り俯瞰撮影していたのだ。
(2009/01/07)

 
 
給水塔

行橋機関区の9600型蒸気機関車と給水塔、給水塔も蒸気機関車がいなくなり無用の長物になりすぐに壊されたことでしょう。わたしはこんな古い給水塔も味がっていいなあと思っています。津山機関区は今も機関庫とターンテーブルが残っているので新たな鉄道マニアの観光スポットになっています。

9600型蒸気機関車は国産で大量生産された機関車ですべて大正時代に生産されています。
大正というと随分昔に感じられますが撮影された時は製造後45年経過した時で保全すれば十分使ええる状態でした。番号だけの機関車名はプレートの読み方にルールがありきす。先頭の数字は連番の100番台を意味します。次の96が形式で後の二桁が連番の下二桁になります。

この機関車は9600形式の768番目に造られた機関車を意味します。
機関車の前方の両サイドに付いている鉄板はデェフレクターと呼ばれ(通称デフ)除煙板と呼ばれるものです。このように下が切り取られた物を切り取り除煙板と呼ばれるものです。門司鉄道管理局で多く作られていたので門鉄デフと呼ばれこればかり撮影するファンもいたくらいです。この機関車のデフの横には波形がデザインされています。こんな事にメロメロになるのが鉄道ファンです。
(2008/11/29)

 
急行ニセコ


C62蒸気機関車の重連が牽引する急行ニセコ。C62は日本の蒸気機関車で一番大きく、東海道、山陽本線で特急を牽引していた。最後に残った函館本線のニセコを撮影するために多くの若者が北海道に渡った。特にC622号機はデフにツバメのマークが付いていてスワローエンゼルと呼ばれていた。これが先頭に来れば気も狂わんばかりに興奮した。

高鳴る鼓動、喉は渇き、手は汗がにじむ。決定的なところだけ一枚だけ撮ればいいのにカメラのシャッターを切る音が響く(撮った写真を見るとこんな連写するのに限ってろくな写真がないのが実態だった)、今のようにフイルムの巻上げもピント露出を合わせてくれないカメラだった。ニコンからモータードライブのカメラが売り出されたが30万円以上した。私の初任給は1万6千円である。そんな給料でも金を貯めれば一眼レフが買える時代になった。一眼レフのシャープなレンズがあっただけ恵まれていたのかもしれない。

小雪舞う長万部駅をリズミカルなドラフト音で眼前を通り過ぎ、哀愁に満ちた汽笛を残し札幌へと走りぬけた。そんなシーンひとつひとつが私の青春の記憶である。還暦を過ぎても夢に蒸気機関車が現れる。まだ蒸気機関車がいるのか撮らなくてはとあせる。その夢の中ではいつもカメラほ持っておらずカメラを取りに帰る途中で夢からさめる。

余談だがこのC62型蒸気機関車は車軸の配置からアメリカのニーヨークセントラル鉄道でハドソン川を走っていた機関車をハドソン型と呼んでいた。その車軸の配置と同じなためC62もハドソンと呼ばれていた。北海道でC62蒸気機関車の撮影にあかけくれていた兄弟いた。後にパソコンの走りの時代にゲームを売るハドソンと言う会社を創る。
(2008/11/01)

 
 
折尾駅

折尾駅に停止するC55型蒸気機関車C55はスポークタイプの動輪でスマートな形状で人気があった。走っていたのは筑豊本線、吉都線、肥薩線、日豊線と宗谷本線である。折尾駅は鹿児島本線の駅であるが筑豊線がクロスする形で北へ延びている、筑豊地方の石炭を若松港まで運ぶために延びている。大きな炭鉱を結ぶ線路は複線であった。炭鉱全盛期にはそれだけの通行量があったのであろう。

どんな写真も四十年近くなるとすべてのものが古く見える。それならば何でも撮っておくべきだったと悔やまれるがなかなか人間は出来るものでない。その時代にしっかりと目的意識を持ち撮影した人は非凡な人というべきである。そうは思っても時間もかかるし実行に移せないものである。通りすがりで撮ったような写真では見る人に感動させられないと思う。

撮影者の強いテーマへの意識と執着がなければいけないと思う。たとえば駅を撮るならば駅前の風景、駅裏の風景、駅本体、改札口、切符売り場、待合室と列車を待つ人、料金や時刻表、売店、プラットホームと列車を待つ人(特徴的な客、行商人、学生)連絡橋、信号機、タブレット、ポイント切替機、駅員、機関士の仕事ぶり、停車、通過する列車、いろんな角度から撮られた写真は時間と共にいい味をだすのである。
加齢を重ねれば記録に残すならこんな観点で撮影しようと知恵も付いてくるが残念ながらこの当時の私にはこんな事は考えは育っていなかった。
(2008/09/04)
 
 
C62型蒸気機関車

糸崎機関区のC62蒸気機関車である。かってC62は日本最大の蒸気機関車で東海本線、山陽本線で特急や急行を引いた。この機関車は呉線を走っていた。C62クラスになると車軸が重いので走れる線路は基幹路線の一部に限られる。呉線はかって山陽線が呉線経由であったため線路規格が幹線仕様であった。山陽線は最大の難所、瀬野−八本松の難所越えがあったため機関車の性能が向上するまで呉線経由と並行運用されていた。

私が呉線に撮影に行っている時に山陽線経由で帰ると貨物や特急電車には瀬野では電気機関車が二台後方から後押ししていた。今の瀬野八を見ますと勾配は相変わらずの急勾配だがEF65,EF66の電気機関車は単機でぐいぐい登っていく。あの当時のブルトレはEF58が牽引していたが現在の電気機関車は性能も格段に向上した。

糸崎機関区は岡山鉄道管理局管内でこの蒸気機関車のオーバーホールは岡山機関区で行われていたので何回か見に行った。試運転走行は山陽線を使ってやっていた。
広島へ茅葺き民家を撮影に行くときは糸崎機関区の前を通る。この写真のコールバンカー(給炭機)や機関庫やターンテーブルは撤去され今は面影もない。こんな写真の風景も近代遺産の1つであろう。
うっすらと煙が出ているが蒸気機関車は運行している時は火を絶やすことは出来ない。火種は残しておかないとボイラーをあたため蒸気が発生するまで時間がかかる。七輪に火をおこし炭を起こし秋刀魚を焼くようなものである。(若い人は火鉢を使った事がないと思いますが火鉢には種火に灰を掛けて埋めていたそんな感じ)蒸気機関車は動かすには缶に石炭を投入しボイラーの圧力を上げておかないと動かせない。
(2008/08/09)
 
 
三重連

この蒸気機関車の三重連の写真は布原かとお思いでしょうがこれは岡山操作場の発車風景です。ここは架線もなく広いヤードで撮影しやすいところでした。荷物は石灰岩を運搬しての空荷です。石灰岩は鉄鋼やセメント工場に使われるので伯備線の足立から瀬戸内海に沢山ある製鉄会社等へ運ばれます。三重連は岡山操作場から倉敷駅まででした一台の機関車はここで切り離されて日本鋼管福山などからの空荷を引いて帰ります。

ある時、機関車一台の貨物が発車する前に運転席に登り撮影させてもらいました。いろいろ話しているうちに倉敷まで乗せてくれませんかと頼んでみたら、乗せてもいいが目立たぬように駅を通過時などは背を屈める事で機関士から了解を得ました。こんな機会はめったにないと心躍る気持ちを抑えて必死でシャッターを切りました。乗って感じた事は振動の酷さです。

蒸気機関車はご存知の通り原始的な機関です。ボイラーと水も一緒に走る機関効率6パーセントのワットやスチーブンソンの頃となんら変らない構造です。ボイラーで発生した蒸気をシリンダーに入れ往復運動をクランク軸で回転運動に変える。構造上バネが入れられないのです。立っていても耐えられない振動を受けます、それでも機関助手は黙々と石炭を缶にスコップで投げ入れるのです。倉敷駅について困った、切符など買っていない無賃乗車です。しかし、そこはいつも撮影で線路伝いに撮影にはいっているので写真を撮るふりして線路伝いに帰りました。
(2008/07/20)