戦国時代の南総は「南総里見八犬伝」のモデルになった武将里見氏の支配する地で、
里見氏は館山城を居城としていました。里見氏は当初、小田原北条氏と関東の覇権をめぐって争うほどの力をもち、上総・安房2国を支配した大名でしたが、豊臣秀吉による小田原侵攻の際に参陣が遅れた事などを理由に上総を没収され、安房一国のみを安堵されます。次ぎに関ヶ原の戦いでは、家康側に属して戦い、鹿島3万石を加増され12万2000石の大名となるも、慶長19年に起きた大久保長安・忠隣事件に連座して安房9万2000石を没収。遠く離れた山陰の伯耆倉吉に左遷されてしまいます。
秀吉や家康は共に里見氏の存在を快く思わず、因縁に近い謀略によって没落させられた里見氏は倉吉の地で失意のうちにこの世を去り、追い打ちをかける様に里見家は無嗣改易となってお家お取り潰しとなります。このとき八人の家臣が藩主の後を追って殉死しました。この出来事は、後に江戸時代の作家、滝沢馬琴によって生み出されたファンタジー長編物語「南総里見八犬伝」のモデルとなったと言われます。
現在の館山市の中心市街地は、里見氏が左遷された後にこの館山に成立した旧館山藩の陣屋町である館山市北側の館山地区と旧北条藩の陣屋町だった南側の北条町からなります。今回は古い町並みが多く残る南側の北条町を紹介します。
北条という地名は古代国衙領の単位で、北条の他に南条の地名も郊外に見られます。
北条藩は駿河大納言と称された徳川忠長の家老として仕えていた屋代忠正が、忠長の改易後にその連座を赦され、安房国内に1万石を与えられて北条藩を立藩した事に始まります。しかし1万石の小藩でありながら歴代藩主は幕府要職に就いた結果、藩は慢性的な財政難となります。
これを打開する為、強引な財政再建を行った結果「万石騒動」を初めとする大規模一揆を幾度も引き起こし、その責任によって屋代家北条藩は、わずか3代でお取り潰しとなってしまいます。
享保10年(1725年)水野忠定が信濃国から安房北条に1万2000石で移封され、再び北条藩が立藩。三代継いで水野忠韶の時、江戸湾防備の関係から安房の所領を収公され、居館を上総国市原郡椎津村に移して鶴牧藩と改名し北条藩は廃藩となります。
この時代の北条陣屋は現在の館山消防署・北条病院・館山警察署のあたりだった言われています。
ちなみに館山藩についても簡単に説明すると。徳川家治のもとで田沼意次と共に権勢を振るった山城淀藩の分家の稲葉正明が、旗本から大名に出世して館山藩を立藩した事に始まります。その後将軍家治の死によって田沼が失脚すると、稲葉正明も連座しますが、3000石の没収で赦され。以後1万石で存続し五代続いて幕末を向かえました。幕末の稲葉家は即座に明治政府に恭順して以後も存続します。
陣屋は里見氏の築いた館山城の麓に築かれたといいます。
江戸期の館山は江戸廻船の避難停泊地として栄えた港町でもあり、明治以降は安房国西沿岸部の中心都市として発展しました。館山の中心市街は、寂れた地方都市の様相を呈していながらもすでに古い家並みは見られず、南側の長須賀地区に比較的奥の伝統的な商家建築や旅籠建築が散見されました。時代は大正・昭和初期以降のものと思われますが、房総半島において稀少な家並みであることは間違いありません。
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