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倉吉

くらよし

山陰の倉敷と呼ばれる鉄工産業で栄えた城下町

鳥取県倉吉市(魚町・東仲町・西仲町・西町・東町・荒神町)

 


玉川沿いに立ち並ぶ土蔵街で有名な倉吉は、古来より山陰道筋の要衝として栄え、戦国時代には打吹城の城下町として発達した町でした。さらに江戸時代以降は伯耆地方における穀倉地帯の中心地、河川交通による物資の集散地として発展し、「稲扱き千刃」という脱穀機の発明で栄えた鍛冶職人の町としてその名を一世風靡します。



現在の倉吉の基礎を築いたのが、打吹山に最初に城を築いた南北朝時代の伯耆守護・山名師義です。やがて山名氏は戦国時代に滅亡し、豊臣秀吉の時代になると家臣である南條氏がこの地に封じられ打吹城を整備し町を発展させました。 関ヶ原の戦い後には一時、中村忠一の米子藩領となりますが、中村家はお家騒動で改易。倉吉は米子と共に天領となり打吹城は一国一城令で破却されてしまいます。



元和3年(1617)播磨姫路から池田光政が鳥取に因幡・伯耆二ヶ国32万5000千石を拝領して入封すると、家臣の伊木忠貞が吹山城跡に陣屋を構えました。寛永9年 (1632)今度は岡山藩池田家と鳥取藩池田家が入れ替えになると、新しい藩主池田光仲の筆頭家老、荒尾成利が米子に入り、倉吉は次席家老の荒尾嵩就が引き継ぎます。荒尾氏は自領内において藩とは独自の行政権を行使し、これを「自分手政治」といいました。



武家屋敷は打吹山の麓、現在の倉吉市役所から野島病院のある瀬崎町にかけて築かれていたといいます。玉川を挟んで南側に商人町、北側に職人町区分されていました。この境界線でもあった玉川一帯が白壁の土蔵や商家が立ち並ぶ倉吉を代表する町並みなのです。



私が最初に訪れたのは1998年頃でした。その時は先を急ぐ旅路であった為に主だったカ所を一歩きしただけで、この町を去ってしまいました。ところが2003年5月、恐れていた事が起きてしまいます。重要伝統的建造物群保存地区で火災が発生し、古い街並みを形成する建物4棟が消失してしまいました。 これほどの有名な観光地ですので、その後の再生は素早かったのですが、それがどのような姿となったのか、非常に気になります。




酒蔵情報

清酒

「此君」

高田酒造

鳥取県倉吉市西仲町2663

0858-23-1511

清酒

「元帥」

元帥酒造

鳥取県倉吉市東仲町2573

0858-22-5020

清酒

「八潮」

中井酒造

鳥取県倉吉市中河原555

0858-28-0821

清酒

「打吹正宗」

小川酒造

鳥取県倉吉市河原町1969

0858-22-2010