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  志木
しき
 川越藩によって整備された水陸運の要衝の在郷町
 埼玉県志木市本町

 構成:商家・町家・土蔵 ■ 駐車場:なし
 
 

埼玉県さいたま市桜区と荒川を介して接する志木市。その中心部の本町には東京近郊近県都市に置いては稀少な、土蔵造りの商家が数多く残されていました。

この本町のあたりは、古くは引又と呼ばれ、鎌倉と奥州を結ぶ街道の宿場が形成されていたようですが、本格的に発展するのは江戸時代になってから川越藩の成立に始まります。
引又村はもともと、新座郡の前身である新羅郡(しらぎぐん)舘本村が耕作地として開発した新田村で、その後枝村から「志木宿」として独立、本村を越える在郷町として発展していきます。

川越藩は、江戸と川越を水運ルートとして、荒川に沿って運河を開削します。これが今に続く新河岸川で、古くからの宿場町であった引又に河岸場を設けました。
こうして、引又は物資の主産地として3と8の日には六斎市も立つほど発展します。
引又の舟問屋は川越藩の年貢米輸送を命じられる格式をもち、また周辺地域の諸産物を江戸へ運び、帰りに肥料や日曜雑貨を移入して財を築きました。

志木宿は3町からなり新宿、中宿、坂下町からなり、中央を野火止用水がながれていたようです。現在は埋め潰されていますが、道路の広さとその両側の古い商家が残ったのは、当初から水路を含めて今の道幅があったものと思われます。

やがて明治になり鉄道が開通すると、舟運は衰退しましたが、河岸問屋は商店として事業を継続し、志木宿は依然として在郷町として機能していきます。

さて、明治に入り全国各地で政府主導の町村合併が行われますが、この地域の合併は
明治7年に行われました。そこで新しい町名が難航します。合併の中心となる引又宿は宿場町・河港町・在郷町として発展していた、事実上この地域の中心地ではあるものの、元来は舘本村の枝村であり、どちらの地名を取るかで大きくもめました。
そこで、県庁の仲裁のもと、古代志木郷という郷名から志木の名が付けられます。
ちなみに、志木という地名は、古来朝鮮系渡来人の入植地であった新羅郡(しらぎぐん)の新羅が訛化したものだそうで、その後の新座郡も(にいざ)ではなく(にいくら)と読み、由来を同じくします。

ちなみに、場当たり的に付けられた志木の元となる、古来志木郷は後に現在の和光市白子であった事が判明します。 白子は江戸期に川越街道の宿場町として発展した町ですが、白子の地名は先の志木と同じく「新羅」が訛化したものでした。