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  白子
しらこ
 川越街道の宿場町
 埼玉県和光市白子

 構成:旧本陣・商家 ■ 駐車場:なし
 
大坂通り沿いの旧家富澤家


埼玉県和光市は東京都練馬区と板橋区に接する、埼玉県最南端の町で、さらに県境に位置する白子地区は川越街道の宿場町として知られていいます。
現在の川越街道である国道256号線は、旧川越街道に沿っているはものの、大きくバイパスしている幹線道路。白子宿の手前から分岐する旧街道の県道109号線もまた江戸期の川越街道とは違い、これもまた明治期以降に整備された新道のようです。

現在のこの地域は、古代朝鮮系の渡来人が入植した土地であり、古くは新羅郡と呼ばれており、白子という地名は新羅から転訛したものだそうで、同じく新羅から転訛した地名に、和光市の二つとなりの志木市もまた由来を同じくします。

白子宿は江戸期に成立した川越藩と江戸城下を結ぶ川越街道の整備に始まりますが、その基礎は古く、中世から戦国期にかけてすでに、関東の要衝であったこの地にはいくつもの諸街道が通り、農村地域であった白子の街道筋に白子の駅家をよばれる町場が形成され、5と10の日には六斎市が立っていたと言われています。
江戸期に、それら地域の諸街道をつなぎ合わせて川越街道が整備され、白子宿が置かれました。

江戸期の川越街道は、地形に沿って蛇行しているのですが、今回は白子宿にしぼっていいますと、現在の東埼橋交差点で分岐する旧道を少しいった所にある白子郵便局の交差点がかつての白子宿のようで、往時の街道は旧道に交差する道でした。
白子郵便局の裏手には、白子宿の鎮守でもあった熊野神社が今なお外界から隔絶されて鎮座しています。境内には今も湧き水が湧いており、江戸期にはこの白子宿には多くの造り酒屋があったと言われていますが、今は一軒もありません。

この江戸期の川越街道は、今は白子宿通りと呼ばれています。白子宿は3町から成り3軒の本陣が持ち回りで役にあたりました。白子宿は現在の県道を横切り、大坂通りと呼ばれる坂道を登って、今度はくらやみ通りと呼ばれる坂を下り、浅久保通りを経て次の膝折宿へ至ります。

大坂通りの左手には旧家富澤家が残ります。富沢家は白子宿の旧家、富澤、柴崎、浪間、新坂、加山の一つで、白子宿通りには富澤薬局や富澤外科医院などがある事から今なお残る旧家の一つのようです。大坂通りの富澤家は中宿本陣を務めていました。

大坂通りを登った左手に上宿本陣があったそうですが、下宿本陣と共に現存はしていません。

川越街道白子宿には、周辺地域から通じる生活道がいくつもあったようで、その内のひとつ、現在の練馬区域から至る牛蒡街道沿いにも旧家が残されていました。


川越街道旧道沿いに残る商家
白子1丁目の牛蒡通りに建つ旧家