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  青柳
あおやぎ
 青柳氏の城下町跡に形成された北国往還の宿場町
 長野県東筑摩郡坂北村

構成:商家・酒蔵・土蔵  駐車場:村役場P 道の駅:さかきた
 
 
長野善光寺は古くから人々の信仰を集め、多くの参詣客が足を運びました。各地から善光寺に通じる街道は、それぞれに正式名称がありましたが、庶民の間ではもっぱら「善光寺街道」と総称されていました。中山道洗馬宿の追分けから北上し、城下町松本を通って険しい山間を抜け、長野に至る北国西街道(往還)もまたその一つです。

城下町松本の北の玄関口である岡田宿を出ると上田へ至る保福寺道との追分けである刈谷原宿、会田宿を経て立峠を越え、青柳宿、麻績宿に辿り着き、最後の難所である聖高原の猿ヶ馬場峠を越えてようやく善光寺平の玄関口である桑原宿に至るこの区間は直線距離にしてはさほどでもありませんが、実に3〜4日を費やす難所でした。この北国西街道の本格的な整備は江戸時代に入り、松本藩主小笠原秀政によって行われます。佐渡金山からの金鉱の輸送路でもあった為に金伝馬制が敷かれ宿場町が整備されていきました。

中世の青柳は戦国武将青柳氏の城下町として発達した集落で、当時は東方の高台に青柳氏の居館、城山の尾根に青柳城があり、見上げるように侍町が整備されていたといいます。麻績宿へ通じる村のはずれには、天正8年に青柳伊勢守頼長が切り開いた、”切り通し”が今なお2ヶ所残されています。帰農化した青柳氏は村の支配層として存続し、宿場町時代には本陣と問屋を世襲していました。

青柳の名は明治8年の8ヶ村による合併で失われ、「大字」すら残されていません。新しい村の名は”立峠”の北に位置していたために坂北と名付けられました。
青柳宿はJR坂北駅前から北西に延びる山の斜面に形成された「坂の宿場町」です。
坂の上には本陣と問屋を務めた青柳家が残ります。宿場はさらにそこから「横町」と呼ばれる北東へ延びます。

さて、坂の麓から南西に延びる旧街道筋にも宿場町の面影が残る街村が形成されています。町並みの中心に建つ、大きく張り出た袖壁に虫籠窓や出格子を備えた風格のある建物が、やはりこの集落で地酒を醸す山崎酒造店です。道路に対して妻入りの建物と平入りの建物が見られるのは、間口に対して制約が設けられた宿場町時代の名残でしょうか?おそらく明治の合併後に村の中心となった場所だと思われます。

この地域は三方を山に囲まれているため、日当たりの良い土地は田畑に、南側山際の日陰の場所が屋敷地にあてられています。急な傾斜地であるため、段差をつけた石垣上に家屋敷が建てられており、水路がその石垣の下をくぐり抜け、石垣の中から抜け流れ出すような水風景が印象的でした。


最も町並みが残る長田地区が坂北村の中心部・青柳宿は北端から始まる
 
 
山の斜面の登り切った場所に建つ本陣・問屋を務めた青柳家
山の上から東に延びる横町・この先に切り通しがある
青柳の酒蔵          
清酒 山清 山崎酒造店 長野県東筑摩郡坂北村1720-1 0263-66-2011