千国街道は松本から安曇野の平野部を抜け、姫川の谷沿いに越後糸魚川へ通じる道で、その歴史は古く、古墳時代より10世紀以上続いた「塩の道」でした。戦国期に上杉謙信がこの道から武田信玄に塩を送ったというのは、真意はともかく有名な故事であります。
海を持たない内陸の信濃や甲斐にとってはまさに生命線でもありました。
糸魚川から千国までは険しい山々が続き、馬が怖がる険しい山道が多い為に、荷物の輸送にはもっぱら牛が使われていました。しかし、この地域は上豪雪地帯であり、冬の間は人が荷物を背負って運んでいました。彼らをボッカ(歩荷)といいます。千国街道の宿場町は、参勤交代の大名も通らなかった為に本陣もなく、は牛方宿という牛と荷物を泊める宿があるのが特徴でした。
千国宿は越後と接する信濃最北端の国境の町でもあり、江戸時代初期から明治3年に至るまで、ここに松本藩の出先機関である千国口番所が置かれ、通行税や塩などの荷物や人改めの監視をした。また盆と暮に「千国市」が立つころには、周辺地域はもとより、遠くは松本城下からも商人が集い、織布・灯火・魚介類などが盛んに商いされていました。
現在千国集落は、千国街道の名の由来になった宿場町でもあり、また山間部に位置して家並みが残された事から、小谷村によって宿場町の再生整備が行われていました。旅人を取り締まった、千国番所も復元され資料館として公開されています。
町並は一部で茅葺屋根の民家が残っているものの、大半はトタン覆いが被っています。寄せ棟造りに信州兜造りに近い大型の民家が、緩やかな斜面にそって並ぶ様は、信濃と越後の文化的緩衝地帯である事を感じされると共に、視覚的変化と奥行きをあたえ、そこに寒村のイメージはなく、まさに往時を偲ばせる宿場町の風景がそこにありました。
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