信濃の国はその北部と南部で異なる文化圏を持ち、そしてその対立は今なお信州人のDNAに深く記録されているといいます。特に長く信濃国の首都であった松本にとって明治に行われた廃藩置県と県の統廃合によって県庁が北信の片田舎であった「長野」に移された際には、各地で独立運動が引き起こされたといいますが、中でも松本人のプライドは相当傷付けられたであろう事はその後の歴史からも想像できます。
松本は古くは深志と呼ばれており、また古代律令時代には信濃国の国府が上田からこの深志に移された事から「府中」が冠され、府中深志もしくは信濃府中とも称されていました。松本の地名は戦国期にこの地を拝領した小笠原氏によって改名されたものです。
城下町の整備は城の北側に武家屋敷を配し、南側の女鳥羽川周辺に町人街の町割りが行われました。善光寺街道(北国西往還)はこの町人町を通過して直角に折れ曲がり北上します。この街道沿いに伝統的な土蔵造りの旧家が数多く残されています。
松本城下の町人町は明治11年の大火で消失し、その復興の際に現在の土蔵造りの町並みになりました。そして今、古い町並みの周辺は電線の地中化や看板の撤去など修景が行われ、古い伝統的な建物は外観を維持したまま飲食店やブティックなどに利用され、生きた町並みの一例が作り始められています。
近世松本藩については、はじめ家康の家老でありながら時流を見誤り、秀吉のもとに走った石川数正が秀吉から松本10万石を与えられます。その後家康が天下を取りますが、石川家はなぜか安堵され初代松本藩主となります。この石川家支配の時代に近世松本城の天守閣や城下町が完成しました。
石川家はその後大久保長安事件に連座して改易。信濃飯田より小笠原秀政が先祖の地であるこの松本に8万石で移されます。小笠原秀政は大坂の陣において親子共々戦死した為、その功を惜しんだ家康によって次男の小笠原忠真に播磨明石10万石が与えられました。続いて家康と縁戚関係にあった戸田(松平)康長が上野高崎から7万石で入封。続いて越前松平家の祖である結城秀康の三男、松平直政が越前大野より7万石で入りますが、わずか半年で出雲松江に転封。今度は3代将軍家光の側近で幕府老中の堀田正盛が武蔵川越3万5000石から10万石の大出世で松本に入封しますが、すぐに出世して下総佐倉へ。
ようやく三河吉田から水野忠清が7万石で入封し、実に6代84年間もの藩政を行いましたが、最後の藩主水野忠恒は奇行の末に江戸城中松の廊下で刃傷事件を起こし改易されてしまいます。
そして最後に戸田(松平)家が再び松本に配され、9代144年間続いて明治を向かえました。
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