松川町には三州街道の宿場町が2つあります。大島宿と片桐宿、この2つの宿場町が合併して松川町が生まれました。
この地域は古代より独自の文化圏が存在していたといわれ、古代東山道の堅錐駅が置かれていたとも言われています。平安期に信濃源氏と呼ばれた片桐氏はこのを拠点に地に勢力を拡大しますが、平治の乱で敗れ、その後逆転した源頼朝によって旧地を取り戻すものの、戦国期に織田信長によって滅ぼされます。
片桐宿は戦国末期の文禄2年(1593)飯田城主・京極高知によって、隣の大島宿と共に設立され、別名原町宿とも呼ばれました。三州街道伊那16宿のうち、市田宿・大島宿・飯島宿と並んで、唯一「宿」として認められた4宿の一つで、飯田藩より五街道さながらの保護をうけ発展します。
江戸時代には飯田藩主脇坂氏によって御茶屋御殿が宿内に建てられます。御茶屋御殿はその後、この地が幕府領となった際に駿府陣屋の支庁として代官所として使われますが、延宝5年
(1677)に飯島陣屋が新設されると引き払われてしまいした。片桐宿はこの幕府領時代に周辺7か村を取りまとめて宿場機能が強化されています。
江戸中期以降は民間輸送機関としての中馬が盛んになり、町は馬や旅人の往来で賑わうと共に、住民も中馬業を副業としていました。
現在片桐に残る宿場町の遺構は隣の松川宿に比べると小規模ですが、海鼠壁の土蔵風景と大きな構えの家々が街道に沿って並び、中でも大沢家は片桐町の問屋を務めた家として、重厚な佇まいを残しています。 |