中山道・木曽路の宿場町であった奈良井宿は、木曽路で最も高い標高940mの位置にあり、木曽路最大の難所である鳥居峠をひかえて発展した、木曽路11宿の中でも最大規模の宿場町で、「奈良井千軒」とも謳われ多くの旅人達で賑わいました。そしてそれは今でも木曽路の宿場町風情を色濃く残す町並みとしては妻籠宿に匹敵する町並みを残しています。
宿場の規模は8町5間。寛政12年(1800)の記録では家数408戸・人口は1,862人。
本陣1・脇本陣1・問屋2・旅篭はわずか5軒、茶屋を含めても40軒ほどしかなく、宿内219軒のうちじつに75%を塗物師や檜物師などの職人が占めていました。もともと東海道に比べ交通量が少なかった中山道ですが、この数の差は奈良井集落の成立と宿駅業務の関わりを物語っています。奈良井宿の枝村である平沢は奈良井宿を支える木工の町でしたが、ここには旅籠が33軒あまりあったと言われますから、公務を負担した奈良井宿との分業が行われていたと思われます。
江戸寄りから下町・中町・上町とおよそ1kmに渡って旧街道筋に立ち並ぶ伝統的な出梁造りの旅籠建築群が続き、中町と上町の間には桝形もあります。これらの町並みは幕末から明治にかけて建てられたものが大半ですが、その後も幾度も火災にあっています。宿場の建物は間口が制限されていた為に、奥行きが長い「鰻の寝床」と呼ばれる建て方が特徴です。川側に建つ建物はかつて川辺付近まで奥行きがあったそうですが、国鉄中央西線の建設によって分断されてしまったそうです。条例により建物は宿場町の景観に準じた物に制限されていますが、屋根は板葺石置屋根ではなく耐久性のある長尺鉄板葺に変更されていますが、緩い勾配の為にまるで気になりません。
現在奈良井の町並みの大半は作業場兼店舗として利用されていますが、住民の多くは別の場所に住んでおり、奈良井には通勤しているそうです。
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