東洋一の間欠泉で知られる諏訪湖の周辺にはいくつもの温泉地があり、中央自動車道の諏訪SAにも温泉が併設されています。諏訪大社下社がある下諏訪町はいくつもの外湯がり宿場町の面影が残る風情ある温泉地として知られています。
江戸時代に入り、正式な宿場町として整備された下諏訪宿は中山道の宿場町であると共に、甲州街道の終点駅でもあります。町の歴史は古く、戦国期の武田氏の時代からすでに宿場が形成されていたと言われています。江戸期の下諏訪宿は中山道と甲州街道の接点である「錦の湯前」を中心に問屋場や旅籠が建ち並んでいました。甲州道中口には宿場町特有の曲手(桝形)が設けられていましたが、宿場自体が高台に位置していた為に宿内を見渡すことが出来ず、他の街道口には曲手は設けられていませんでした。下諏訪宿の規模は本陣1軒・脇本陣1軒・問屋2軒、旅篭40軒で、上問屋を務めた岩波邸が現存し本陣岩波家として公開されています。一方、脇本陣の丸屋家は今も御宿「まるや」として現役の旅館として営業し、他にもいくつかの旅籠が今に続いています。
町並みとしては若干造られた感も否めませんが、ここから北へ和田峠へ通じる湯田坂沿いの旧道には、意外に知られていない往時を偲ばせる家並みが残されています
戦国期にこの地域を治めた諏訪氏や江戸期以降の高島藩(諏訪藩)に関しては上諏訪の項で触れているのでここでは割愛し、諏訪大社における上社と下社について軽く触れてみます。諏訪湖を挟んで南北に対峙している諏訪大社は上社(本宮・前宮)と下社(春宮・秋宮)を合わせて信濃国一宮といわれていますが、古くはそれぞれ別の土着宗教でした。上社本宮の神体は「守屋山」ですが後に武神として知られている建御名方命(たけみなかたのみこと)前宮は八坂刀売命(やさかとめのみこと)を祀り、下社の神体は「御射山」であるもののそれとは別に八坂刀売命を祀っています。これは諏訪大社が土着の自然宗教から神社へと発展したことを意味しており、それぞれ神体を持つために神殿はありません。諏訪社の内紛は室町期に始まりました。先に神官職である惣領家から分離し武士団化した上社の大祝諏訪氏と、追って武士団化しはじめた下社の大祝金刺氏との間で権力闘争が起き、ここに三つ巴の紛争が勃発します。しかし戦国期になると甲斐の武田氏によって惣領家を始め2つの諏訪氏は相次いで滅ぼされました。諏訪社は純粋な神社として再出発し、下諏訪町は諏訪大社下社の春宮と秋宮の門前町としてそれぞれ発展しました。
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