JR常磐線と水戸線の分岐駅である友部駅。水戸線で一つ目の駅「宍戸」は、かつて友部町の玄関口であり、江戸時代は水戸徳川家の支藩である宍戸藩1万石の陣屋町でもありました。
中世よりこの地域は宍戸荘と呼ばれ、鎌倉初期に常陸国守護の八田知家の四男家政がこの地を領して、以後宍戸氏を称します。宍戸氏は後に常陸国を統一した佐竹氏の配下に加わりますが、関ヶ原の戦い後の慶長7年、佐竹氏とともに陸奥秋田へ転封させられます。替わって先の秋田城主、秋田実季が5万石を得てこの地に入封し宍戸藩が成立しまが、2代藩主秋田俊季の時に陸奥三春へ移封となり、一旦幕府領を経て水戸徳川家の支藩となります。宍戸には「水戸黄門」こと徳川光圀の弟、頼雄が1万石を得て入封。松平氏を称して幕末まで続きます。
しかし、この宍戸藩は幕末において水戸藩で天狗党の乱が起こると、その鎮圧に当た
るも失敗し、藩主は切腹、家臣も処刑され藩は取りつぶされてしまいます。
明治22年に水戸鉄道(現JR水戸線)が開通すると、宍戸は石岡府中や霞ヶ浦と東京方面を結ぶ物資の積替地として栄え、宿場や商家が軒を連ねたといいます。
しかし、明治31年日本鉄道磐城線(現JR常磐線)が開通すると、水戸線との接続の為に、なにもなかった原野に友部駅が新設され、以後この地域の中心は友部駅へと移っていきます。宍戸町は友部町と合併。宍戸の地名は消えますが、かつての中心地であった”平町”には郵便局や小学校に宍戸の名が残されています。
宍戸の町並みは宍戸駅から離れた涸沼川(ひぬまがわ) 沿いに形成されています。おそらく鉄道が開通する以前は、涸沼川水運が物流の要だったのでしょう。町を貫く国道355線は宍戸を大きく迂回するバイパスが新設され、交通量はそれほど多くはありません。しかし、町の中心も隣りの友部に移って半世紀。商家はすべて仕屋屋となり、人々の往来はありません。
|