正保2年(1645)時の福井藩2代藩主松平光通の異母兄弟である、松平昌勝が福井藩から5万石を分知されて越前松岡藩が成立します。ちなみに弟の昌親には、越前吉江2万5000石を分知して吉江藩が成立しています。
昌勝は妾の子であった理由で、正室の子である弟の光通が家督を継いだのですが、これが後に福井藩を改易に追い込む後継者騒動の引き金へと繋がります。
2代藩主松平光通は、男子に恵まれず、それを苦にして自害した正室国姫の後を追います。ちなみに自害した2代藩主光通には、長男で実子の直堅がいたのですが、側室の子であった事で家督継承者として認知されず、後継者争いが再燃した際、身の危険を感じて福井を脱出し江戸に逃れ潜伏生活を送り、後に将軍家に仕えます。
遺言により福井藩3代藩主を継ぐことになったのが、光通の弟で吉江藩主松平昌親がでした。これにより吉江藩は廃藩に。
ところが、脇腹とはいえ兄の昌勝(松岡藩主)、江戸に逃げた実子の直堅を差し置いての就任には、藩内にも反発があり、その空気を読んでいた昌親は、わずか2年で隠居してしまいます。
4代藩主を継いだのが、昌勝の長男綱昌。これで少し順序をもどし後継者争いを沈静化しようと試みますが、この綱昌がまだ16歳の上、家臣を殺害するなど乱心を繰り返した理由により福井藩はお取りつぶしとなってしまいます。
しかし徳川一門筆頭の名家ゆえに、約50万石の大藩から半分の25万石に格下げの上で再興を許されます。
5代藩主となったのは先代で隠居した昌親でした。将軍綱吉の片諱をもらって吉品と名を改めます。先の藩主綱昌の乱交の裏にはこの昌親の陰謀だったという説も。
6代藩主は松岡藩の藩祖である昌勝の六男吉邦が。続いて7代藩主も昌勝の三男で松岡藩2代藩主を継いでいた松平昌平が継ぐことになり、ここに松岡藩は本藩に吸収されて廃藩となります。
家臣団に加えて寺社も一斉に福井城下へ移転した為、松岡は街道筋の町屋を残して急速に衰退してしまいます。そこで福井藩は鋳物や酒造業などと保護育成して町の景気回復につとめました。やがて松岡は福井東部における政治経済の中心として再起し、在郷町・宿場町として発展していきました。
現在、古い町並みは春日の黒龍酒造のある通りと、松岡駅北側に集中しています。
比較的連続している部分と点在している部分に分かれますが、多くの建物が近年に修復されて状態が良く、伝統的な町並みを大切に守っていこうという思いが伝わってきます。ちなみに陣屋と家臣屋敷があった場所が現在の葵地区です。
陣屋町の歴史を持つ松岡は、九頭竜川の伏流水に恵まれ、小さな町ながら4軒の酒蔵が今も残ります。なかでも文化元年創業の黒龍酒造「黒龍」は私のベスト10に入る日本酒の1つです。
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