岐阜県は名古屋に接する美濃地域と北陸に接する山間部の飛騨地域からなります。古くはそれぞれ独立した国であり、まるで異なる文化圏を持ちます。飛騨高山は神秘的な飛騨の中心地であり、周囲を山に閉ざされた盆地の都市。その名の響き、知名度とは逆に岐阜県のイメージが薄く、その位置すら正確に知る人は少なく、地元の方が県外の人にその場所を説明する事がかなり苦労されるといいます。
それでも、いやそれゆえにか町並みの規模と歴史・文化、風土風俗が保存され、さらに”飛騨の酒どころ”と呼ばれるほど、市内には酒蔵を初めとする醸造業者が林立して、非常に密度の濃い町でもあります。
越前大野城主の金森長近は、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命により、三木自綱を滅ぼして飛騨地方を平定。高山城(現城山公園)を築き、城下町を建設しました。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、飛騨3万8000石を安堵されます。こうして江戸時代に中期まで金森氏は高山城に6代107年間にわたって在城しますが、この間に高山の商人や職人は保護育成され、高山城下は大きく繁栄しました。
その後金森氏は出羽上山へ移封となり、飛騨高山は天領として、代官・郡代の支配する幕府直轄地として明治まで続きます。しかし商業の保護育成策は引き継がれ、町の発展は続きました。
高山の町人町の中心は 一之町、二之町、三之町から成り、これらを合わせて通称「三町」といいます。三町はさらに安川通りを境に上町と下町に分かれています。
高山では豪商達を「旦那衆」と呼び、「三町の衆」とも呼ばれていました。
高山の衆は、その財力で飛騨の経済を牛耳り、それによって華麗な文化が生まれ、代々受け継がれてきました。
天領の町・高山には、現存する唯一の「陣屋」が宮川の対岸に残されています。
栄華を誇った豪商の三町には、陣屋に配慮して二階建ての商家はありません。厨子二階よりも少し高さのある中二階造り(高山ではゴミ二階)で建てられています。しかし、中身や裏手は当然ながら勢を凝らしているのです。
現在の三町の町並みには二階や三階建ての商家や町家が見られますが、おそらく明治以降に建てられたものと、景観造りの為に商家に似せて造られた建物も多く見られます。
飛騨の酒どころでもある高山には、老田酒造をはじめ一之町・二之町・三之町 を中心に8軒もの蔵が酒造りを行っています。
会社規模にもよりますが、個人よりも財力のある法人が、古い商家や町並みを受け継いでいることも、高山に限らず重要な要素ではないでしょうか?
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