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  越前大野
えちぜんおおの
 奥越の小京都・湧水の町・大野藩土居家4万石の城下町
 福井県大野市(元町・本町・城町・泉町)

 構成:町家・商家・酒蔵・寺町 ■ 駐車場:観光P
 
元町の七間通り
 

奥越の小京都」と呼ばれる城下町・越前大野は水の町。日本の水100選に選ばれた「御清水」(おしょうず)の他、町中の数カ所に清水が湧き、碁盤の目に整備された町筋に沿って引かれた用水路によって町に潤いを与えています。どの家でも地面を掘れば水がしみ出すこの町には上水道が無いというから驚きです。名水あるところに名酒あり。越前大野は奥越の酒どころでもあります。

戦国時代、織田信長の武将金森長近の城下町として越前大野は発展し、東西南北六条に碁盤の目の町域が整備されました。
江戸時代に入ると越前松平直政が5万石で入封し藩政が始まります。

ここで少し宗藩である福井藩の歴史ついて触れてみます。関ヶ原の戦い後、その功により徳川家康の次男である結城秀康が越前一国68万石を与えられ北ノ庄(後の福井)に入ります。不遇の将として知られる結城秀康は、幼少期にその容姿の醜さから父親の家康に嫌われ、豊臣秀吉に養子(人質)に出されます。
秀康の名は秀吉からその一字を賜ったもの。しかし文武に秀でた秀康を秀吉は恐れ、
同じころ継嗣が無く悩んでいた関東の名門結城家に再び養子に出され、以後結城氏を名乗ります。越前松平家の祖となりますが、自身は松平を名乗ることはありませんでした。
秀康が没し、長男の忠直が後を継ぎ、また松平を名乗ります。さらに北ノ庄という地名が「敗北」につながるとの理由で、「福居」に改められ、さらに「福井」と書かれるようになります。しかし、忠直は大坂の陣で戦功を立てながらも恩賞が無かった事などをきっかけに乱行に走り、改易のうえ豊後大分に流されます。
御家門筆頭の家柄ゆえに、秀康の次男の弟で越後高田藩主の松平直弟が50万石で越前福井に入封。かつての所領は小藩に分割されます。

福井藩附家老の本多氏に丸岡藩4万6000石、秀康の三男直政が大野藩5万石、五男直基が勝山藩3万石、六男直良が木本(このもと)藩2万5000石といった具合です。

越前大野の藩主は、宗藩である福井藩の騒動に連座して藩主が入れ替わりますが、初代直政は信濃松本へ、代わって越前勝山より弟の直基が加増され2代藩主になるも、
羽前山形へ。続いて越前木本から越前勝山へ転封した直良が今度は3代藩主として入封し、子の直明が継ぐも播磨明石へ移封となり越前松平家の支配は終わります。

代わって大野に封じられたのは、幕府の大老で知られる土井利勝の三男利房が常陸下妻より4万石で入り、以後7代続いて明治を迎えました。
この土居氏の時代に亀山の山頂にそびえる大野城が完成し、麓の家臣屋敷と寺町の再配置、そして今に残る碁盤の目の町人町が整備されていきます。

現在、越前大野の朝一で有名な七間通りを中心に東西に引かれた各筋には、厨子二階に袖卯建の伝統的な商家が軒を連ねています。ここでは毎週朝一が開かれています。一方南北に通る本町通りには二階建ての旅籠建築や現役の酒蔵が立ち並らび、町の東側には寺町が形成されています。町を見下ろす天守閣が建つ亀山の麓には武家屋敷がわずかに保存され、城下町のあらゆる要素が生きた状態で残る、小京都にふさわしい町でした。


泉町の御清水
七間通りにある「花垣」南部酒造場
寺町通り
要町の源平酒造
大野城麓の武家屋敷
大野城から見た越前大野
 
越前大野の酒蔵          
清酒 「花垣」 南部酒造場 福井県大野市元町6-10 0779-65-8900
清酒 「源平」 源平酒造 福井県大野市要町1-33 0779-66-5712
清酒 「真名鶴」 真名鶴酒造 福井県大野市明倫町11-3 0779-66-2909
清酒 「一乃谷」 宇野酒造場 福井県大野市本町3-4 0779-66-2236