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  泉佐野
いずみさの
 海を失った和泉最大の港町と豪商の家並み
 大阪府泉佐野市西本町・元町・本町・春日町・他
商家・町家・酒蔵・武家屋敷・土蔵  なし 南海本線・和泉佐野駅
 
泉佐野市が公開している旧新川家住宅
 

関西国際空港の玄関口に位置する泉佐野市は人口10万人の大都市です。合併で市域が拡大し現在の町の中心は南海本線の南側に移りつつありますが、泉佐野の地名は古くより和泉国最大の港町として栄えた佐野から来ているとおり、海側の地域が長くその中心地でした。
しかし、埋立に次ぐ埋立によって、かつて栄華を誇った港町は海を失っています。

佐野湊は中世から定期市が立ち、和泉守護所も設けられていて和泉国南部の政治・経済の中心地として発展していました。
海運業や漁業も引けをとらず、江戸中期には1,000軒以上の浦方を有し、和泉国九ヶ浦(岸和田・春木・津田・脇浜・鶴原・佐野・嘉祥寺・岡田・樽井)のなかでもトップの座を誇り、佐野所属の商船は600石積以上が77艘、300石積以上が81艘、100石積以下でも110艘以上を保有。多くの豪商を輩出し、中でも廻船問屋の食野・唐金の両家は日本海沿岸にまで商圏を伸ばして富を築き上げ、多くの大名に貸付を行っていました。

一方漁船に至っては320艘を誇り、「佐野網」として知られた佐野の漁師は、遙か対馬や五島列島周辺にまで進出していました。

さらに村内を紀州街道が通り、街道沿いにも町場が形成されていきます。そして、当時の佐野人口は8,000人を越えていたといいます。

かつての港町の外れを通る旧紀州街道は、一部アーケードに覆われた商店街、メインストリートとなっています。もっとも商店街は閑散として人影も店の灯りも少ない地方都市のシャッター商店街の様相で、人口10万人の都市とは思えません。
その商店街通りには、ポツポツと商家建築が見られましたが、岸和田のような連続したものの実態は大きくかけ離れており、栄枯盛衰の凄まじさを目のあたりにした気分でした。
しかし、本町や元町といった地名が街道から外れた、かつての海側に向かって広がっている事に気が付きます。案の定、ありました。漁村集落ほど迷路のように入り組んではいませんが、地形に沿って区画されたのか、やや歪んだ網状に形成されています。

そこに残された家々はどれも大きく、そして蔵を持っています。漆喰の白が生えた伝統的かつ重厚な主屋や土蔵、さらに屋根瓦は大半が本瓦葺きであり、多くが商家造りという事で、佐野湊の繁栄と富の蓄積を見せつけられました。


 
奥に見えるのが商店街のアーケード
 
商店街通りとなっている旧紀州街道沿いの町並み
 
泉佐野の酒蔵          
清酒 「都娘」 北庄司酒造店 大坂府泉佐野市日根野3173 0724-68-0850