米原宿は北国街道の宿場町ですが、中山道へのバイパスとの追分でもあります。つまり中山道とは直接はつながっていません。中山道と北国街道の追分は1つ南の鳥居本宿がそれになります。
また米原は宿場町であると共に港町の顔も持ち、この港町の機能によって発展したとも言えます。江戸時代初期ごろまでは、まだ名も知れない小さな寒村でした。やがて彦根藩によって米原に湊が整備された事によって大きな変化が訪れます。
米原湊は現在の米原駅付近だと言われています。彦根藩の政策によってそれまでの朝妻湊から米原湊及び松原湊・長浜湊が彦根三湊として発展していきました。
慶長16年(1611)彦根藩は中山道の番場宿から米原に通じるバイパスを切り開き、中山道の荷物を取り扱う宿場町としても整備しました。中山道番場宿から湖上の水運に乗り換えて大津・京都方面へ結ぶ大ショートカット路として、米原は発展していったのです。
敦賀・越前方面と結ぶ北国街道との要衝も兼ね、街道沿いには町並が続き、船入り堀の周辺には蔵が建ち並んでいたといいます。
さらに明治22年、湖東鉄道(現JR東海道本線)が開通し、米原駅は北陸線との分岐駅をして重要な位置を占め、鉄道の町として新たな発展を手にします。その後は滋賀県内唯一にして全国でも珍しい「町」に新幹線の駅が置かれる事にもなります。滋賀県内唯一の新幹線駅がこんな辺鄙な場所に置かれたのは、北陸本線との接続が鍵であり、福井・石川県など北陸地方の強い要望を受け入れたものによります。
東海道と北陸を結ぶ交通の要衝という町の性格を、今もなお違う形で象徴しています。
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