御所市市街、葛城川の東側の地区を「東御所」といい、現在も通称地名として「寺内町」の名があるように、江戸時代初期に浄土真宗本願寺派圓照寺(円照寺)の寺内町として発展したと言われています。
御所の町は、関ヶ原の戦いで功のあった和歌山城主桑山重晴の次男元晴が1万2000石をもって成立した御所藩の陣屋町がその始まりで、葛城川の西側の通称「西御所」と呼ばれている地区がそれにあたりますが、この東御所も同じ時期に成立しています。
桑山氏は商業都市建設の為に寺内町を積極的に活用しており、現在の大和高田市の基礎となった高田寺内町も同様に成立しています。
円照寺は初め浄徳寺(常徳寺)と称していましたが、万治元年(1658)圓照寺に改め
ました。江戸時代を通じて西本願寺大和五ケ所御坊の1つとして触頭を勤め、大和平野南西部西本願寺末50ヶ寺余りを統括し「御所御坊」と称されていました。
御所市役所の南に架かる大橋から続く大橋商店街に連続した街並みが残ります。
明治以降鉄道や国道が葛城川の西側・西御所に通された為、西御所の発展に比べて取り残された東御所ですが、近年古い伝統的な街並みが見直され、景観整備が行われている為にほとんどの建物は手入れがなされており、商店街としての活気はありませんが、あまりさびれた印象は受けませんでした。
東御所は宅地化が進んでいますが、細い通りには随所に伝統的な町家が残ります。
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