大和高田は古くから交通の要衝であると共に、江戸時代初期に高田御坊と称された専立寺の寺内町として発展した町で、現在も高田駅西側の専立寺周辺と伊勢街道・下街道沿いに古い町並みが残ります。
慶長5年、関ヶ原の戦いの功により紀伊和歌山城主桑山重晴の嫡孫桑山一晴が布施
(後の新庄)に2万石を与えられ布施藩が成立します。一晴は城下町の建設に取り掛かると共に、領内の高田村に浄土真宗正徳寺を誘致し寺内町の建設を許します。
正徳寺は西本願寺大和五ケ所御坊の1つで、のちに専立寺と改称し高田御坊と称されます。高田村の中心は下街道に面した本郷でしたが、急速に発展する寺内町へ移っていきました。
水に恵まれなかったこの地域では、綿花や菜種、煙草などの栽培が盛んに行われ、高田寺内町にはそれらを取り扱う問屋が軒を連ねるようになります。やがて幕末から明治にかけて本格的な繊維業へと発展。大和紡績(現在のユニチカ)が設立されると高田は本格的な繊維城下町の道を歩みました。
江戸期の高田寺内町は専立寺に面した通りの寺内表町と裏通りの寺内裏町からなります。今の内本町・南本町の商店街がその場所で、一部アーケードで覆われている部分もありますが、旧家の商家建築を初め、江戸期から明治・大正に建てられた建物が残されています。
長く高田の町を支え続けた繊維産業も時代の流れと共に斜陽を続け、高田駅東口にあったユニチカ高田工場(旧大和紡績)は昭和52年に閉鎖されました。そしてその広大な跡地は再開発され大規模ショッピングセンター・ユニチカオークタウンの他、病院や団地など新しい街に生まれ変わる事となります。一方でそのために駅西側の旧商店街は寂れ、僅かに残された古い町並みが見直され保存整備へと繋がったのではないでしょうか?旧街道沿いに残る建物に比べて内本町の旧家のそれは良く再生され、その差は歴然であり、いずれ古びたアーケードも撤去され専立寺と一体となった町並みが作られていくかどうかは分かりませんが、そのような試みが動き始めている気配を感じました。
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