今井町(いまいちょう)は奈良県橿原市にあり、一向宗派今井御坊の寺内町として発展した町です。寺内町とは寺院を中心として形成された城塞都市のことで、今井町は寺院が武装化していた戦国時代の要塞都市の姿をも色濃く残し、極めて貴重で重要な町として世界的にも注目を集めています。 近鉄大和八木駅の西側に位置する東西600m、南北310mの小さな区域には、町内の民家およそ760軒のうち8割近くが江戸時代から残る伝統的建造物で、うち9件12棟が国の重要文化財、3件11棟が県文化財、5件6棟が市文化財に指定されています。
現在の今井町は奈良の中心部から遠く離れていることもあって、知名度も低く観光客も少ないひっそりとした町ですが、江戸時代の最盛期には、戸数1,100軒、人口4,000人からなる大和最大の財力を有する町で、「大和の金は今井に七分」とも「海の堺、陸の今井」とも歌われていました。
「今井」という地名は至徳3年(1386)の興福寺の文献上に初めて登場します。大和国は鎌倉時代から長らく興福寺の支配下にあり、今井も興福寺一乗院の荘園でした。このころはまだ大和平野に数多く見られる環濠集落の一つに過ぎませんでした。
やがて室町時代後期になると興福寺の力徐々に弱まり、このころ河瀬兵部丞が石山本願寺の顕如上人から寺号を得て、この今井に一向宗の道場(のちの称念寺)を建てます。しかし興福寺の支配地域に一向宗が布教活動の拠点を築いた事は当然紛争を生み、今井道場は興福寺一乗院派によって幾度も破却され続けました。しかし時代と共に一向宗との勢力図は逆転し興福寺派の弾圧は姿を消します。
永禄年間に河瀬兵部丞(後の今井兵部)は川合長左衞門(後の今西與次兵衞)と共にこの中世環濠集落を母胎として、称念寺を中心とする寺内町の建設を始めました。東西南北の四町が整備されるのは天文〜天正年間で、天正4年から文禄4年にかけて南町の飛地や新町、今町が東側へと拡張していき、現在の姿に近い六町が成立します。
また一向宗門徒や在郷武士・牢人を結集させて武装都市化をめざし、土塁や見通しを妨げる筋違い道路の地割りを行い、町の周囲には約3間の堀と土居をめぐらし九つの門と木橋が設けられていました。(東側3ヶ所、西側1箇所番屋付設、南側3ヶ所、北側2箇所、この9つの門は明治まで残されていました)戦国期にはより要塞化は進んで、大阪方面から攻められる事を前提に、最前線である町の西口には櫓 (城郭)を設け、今西家を城構えとして環濠城塞都市へと発展していきます。
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