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今井町・西町

いまいちょう にしまち

江戸時代の町域を残す中世一向宗の寺内町に始まる大和最大の商業都市

奈良県橿原市今井町

 



永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、今井町は石山本願寺に呼応して反信長の旗を立てて抵抗しました。しかし信長が大和を平定すると、今井は明智光秀を通じて堺の豪商津田宗及の仲介で信長に降伏します。一向宗の徹底的な弾圧を行った信長も今井町の重要性を認識し、武装放棄を条件に赦免したうえ、自治権を与える寛大な処置をとりました。 今井御坊が復興されるのは、豊臣秀吉の時代となってからで、河瀬兵部は姓を今井兵部と改め豊臣氏の家臣となります。



今井町は独立した自治権や数々の特権が与えられた事から、多くの商人が集まり、やはて大和最大の在郷町へと発展していきます。今井町の財政力を物語るものに、独自の紙幣である「銀札今井札」の発行が上げられます。それは今井町や大和国内だけにとどまらず、全国にまで流通するほど高い信頼性を誇っていました。



江戸時代の今井町は、一時期大和郡山藩支配の時期もありましたが、大半の約180年間は天領(幕府領)となり、町の西側の堀の外側には同心屋敷と呼ばれる代官所が設けられました。中世から続いた寺内町の特権は失ったものの、しかし大幅な自治権は許され、町政は今西、尾崎、上田の三人惣年寄を頂点に町年寄・町代を置き、警察権・司法権・行政権を与えて他の町とは違う支配体制で優遇しました。今井の豊富な財力が数多くの大名家や旗本に融資され、また高い税収が幕府にとっても無視できないほどになっていたからです。



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今井町成立時から河瀬氏と共に歩んだ河合(川井)氏は江戸時代初期に今西氏と名を改めます。名の由来は 今井町の西口に屋敷を構えていたことにちなみます。一番上の写真が今西家住宅で、慶長3年(1650)に建てられたもので、城郭のような「八つ棟造り」と呼ばれています。



今西家から東に延びる「本町通り」の町並み









「御堂筋」の町並み・江戸時代は「今井六斎市」の名で呼ばれ、毎年5月第3週の土日に市が開かれていました。







御堂筋は称念寺の西向かいに建つ豊田家住宅・豊田家は今井町で材木商を営んでいた「西の木屋」の屋号をもつ牧村家所有の建物で、江戸時代は大名貸で財を築いた旧家です。寛文2年(1662)に建てられたもの。









酒蔵情報

清酒

「出世男」

河合酒造

奈良県橿原市今井町1-7-8

07442-2-2154