平城京の外京であった奈良町の南端、”京の端”を意味する京終(きょうばて)町は奈良町の玄関口とも言えますが、この京終から天理市方面へ上街道の旧道筋を下ること約4.5km。その道中に古い家並みを残す蔵之庄町の集落がありました。
蔵之庄は上街道に沿った街村集落で、その歴史は古く平安期の興福寺領時代にはすでに「蔵荘」の名が見られます。この地名はおそらく、年貢の郷蔵が置かれていた地であったのではないかと想像しますが、その後の大乗院門跡領時代には「倉荘」と書かれていました。そして今に続く蔵之庄の地名となるのは江戸時代に入ってからのことです。
蔵之庄町を南北に走る上街道沿いには、漆喰に厨子二階の伝統的な商家の他、トタンが被さっているものの、多くの「大和棟」の古民家が連なる街村を形成しています。
そしてこの蔵之庄町を過ぎると次はこの上街道で最も大きな町場であり交通の要衝として発展した櫟本を経て、天理市の中心部へと入っていきます。
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