月山富田城の城下町、その後松江藩支藩の陣屋町として中世から近世にかけて栄えた広瀬町から飯梨川に沿って南へ約8km。飯梨川が地内では布部川とその名を変える布部地区の河岸段丘上に、まるで宿場町のような古い町並みの商店街がひっそりと残されていました。戦国時代に尼子氏の拠点であった月山富田城の南の外郭である布施城は、毛利氏の侵攻によって没落する尼子氏存亡の最後の牙城として激戦が繰り広げられた場所でした。
江戸時代の布部村は製鉄産業(たたら製鉄)と、その燃料である木炭生産によって栄えた山村でした。布部の製鉄業を指揮した家島家を中心に町は発展し、陰陽連絡街道沿いにも位置していた為に旅館も早い時期から営まれていたといいます。
町の北端付近に建つ明治28年創業の青砥酒造、 「鉱泉旅館」の看板を掲げる常磐館、そして洋風建築の姿など、藩政期から明治・大正期に掛けて続いた長い繁栄の歴史を感じます。ひっそりと静まり帰った街路に響く用水の流れは、中国山地の山間の集落に多く見られる心地良い響きで旅人を迎えてくれます。
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