大原郡の中心地、木次町から東へ約2.5km。三刀屋町は旧出雲街道(現・国道54号線)が町を東西に走り、市街地は斐伊川の支流三刀屋川に沿う形でL字に形成されています。「出雲国風土記」には「三刀矢」の字が見られ、古代の三屋郷の中心地で飯石郡家が置かれていたといいます。飯石郡の最北端に位置する三刀屋町は西出雲における重要な戦略拠点で、鎌倉時代に地頭職の諏訪部氏が三刀屋城を築いて三刀屋氏を名乗ります。後にこの城は尼子十旗の一つに数えられ、その後毛利氏の手中に入りますが、関ヶ原の戦い後に、24万石で月山富田城(広瀬)に封じられた堀尾氏の支配となり、その後一国一城令によって破却されます。
このように戦国期からの城下町であった三刀屋町は、江戸時代初期には下町・本町・横町からなる在郷町として発展していきます。飯石郡は古くから”たたら製鉄”が盛んな地域で、その輸送の為に三刀屋では松江藩の保護の元で牛馬市場が開かれていました。また木次町と並んで斐伊川中流域の河港としてもにぎわい、雲南三郡の物資を集散する商業の中心地としてその繁栄は明治以降まで続きますが、大正5年に建設された簸上鉄道(ひのかみてつどう・現在のJR木次線)の開通によって、その沿線から外れていたことで、舟運の廃止と共に町の活気は失われていきました。
現在、三刀屋町の市街地は、国道が市街地をバイパスしている為、交通量は少なく、東西約1,3kmに及ぶ町の規模に、最盛期の町の様子を偲ぶことができますが、伝統的な古い建物は少なく、昭和初期で時計の針が止まってしまったかのような町の姿に、栄枯盛衰の歴史の哀愁を感じずにはいられません。
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