広島市街から約80km、中国山地の南麓に位置し、島根県と接する県最北端の自治体の一つ、旧双三郡布野村(ふのそん)。
布野という地名は古来の布努(ふぬ)郷が転訛したものと言われ、古くより陰陽連絡道の要衝でした。北は国境を越えて赤名宿へ至るこの道は石州街道、また近代には石見銀山街道とも呼ばれた道で、現在は国道54号線が踏襲しています。
布野は県境に近い最奥の村ですが、三次市街へは車で30分ほどの距離にあるので、僻地の村という印象はありません。
江戸時代、毎年秋になると、天領・石見国大森銀山から中国山地を横断して、瀬戸内海は尾道港まで運上銀銅が大規模に移送されました。人員約400名、馬約300匹の大輸送団を支える石見銀山街道の宿場町である布野宿の規模は、中国山地の宿場町の中ではそれ相当の規模を有していましたが、それでも移送団通過の際には近郷の助郷の負担を持ってしても大変なもののだったようです。
加え、この布野周辺の地域もまた全国屈指の和鉄(たたら)の産地であり、製鉄に必要な木炭産業を含め、近世後期まで製鉄業で栄えた町でもありました。
国道54号線が町を迂回した、現在の布野の町並みはわずか700mほどの街村です。家並みに連続性は無く、藩政時代、しいては宿場町時代の面影もほとんど残されてはいないものの、集落の中央にひときわ目を引く旧家の邸宅。
薬医門と塀に囲まれた武家屋敷のような旧中村家は山林を所有する大地主で酒造業や金融業も行っていた旧家で、この邸宅の周囲の道だけブロック舗装が施されているものの、町並み全体をどうにかしようという事では無いようでした。
人影の少ない布野の町並も、道路脇を流れる融雪用の暗渠の水音が静寂な集落を包みこんでいるのは、
山間集落の例外にもれない心地よい響きです。
|