川上町の中心である地頭から西へ約10キロ、標高約600mの馬の背のような山上に、かつて市場町として栄えた集落があります。
この集落の名を高山市。(たかやまし)では無く「こうやまいち」と読みます。地頭からこの高山市を経由して国境を越え、備後東城で至る道を高山往来と呼びました。
備中笠岡から備後東城へ通じる道は、この高山往来の上に、後月郡芳井町を経由する東城往来がメインの幹線道路でしたが、備中高梁や新見方面からのアクセスとしては重要な道でありました。
かつての東城往来を踏襲する現在の県道芳井油木線は、自動車交通に対応する為に勾配のゆるやかな鴨川に沿ったルートで建設されましたが、元々の東城往来は、芳井町の上鴨字日指から垂直に最短で北上し、「胸突八丁」と呼ばれる千峰坂を越えて、高山市で高山往来に合流していました。
こうした備後東城と備中笠岡を結ぶ往還の丁度中間地に位置する高山市は物資集散の在郷町として発展しました。また、この地のブランドである高山牛の牛市も開かれていました。
もう一つ、この高山市を語るに欠かせないのが約1キロほど北に位置する穴門山神社の存在があります。高山市はこの穴門神社の門前町としても発展していたのです。高山という地名とその読みも、神山(こうやま)が語源だと言います。
さらに、この高山市で特徴的なのが、集落の半分以上が行政的に隣り町に属している事にあります。町の実質的な窓口である郵便局は高山市局では無く、隣り町・芳井町の東三原局なのです。
これは大正中期に高山市の下市のはずれに三原銅山が開坑した事にはじまる物と思います。
これにより東三原分に町場が発展、最盛期には相当な活況ぶりだったと言います。しかし昭和10年の大火で、東三原も含めた高山市の大半が消失してしまいました。
現在、この限界集落も近い山上集落の高山市ですが、なかなかどうして、普通の住民が生活して集落が成り立っているのです。各家々には市場町時代の屋号が掛かり、この特異な集落を残していこうという意志が感じられました。
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