大洲市の郊外に位置する新谷町は江戸時代に大洲藩の支藩・新谷藩1万石の陣屋町として発展した町で、今なお陣屋の遺構や武家屋敷、町人町の風景のほか、藩の会所の土蔵、藩札収蔵庫(金蔵)なども残されています。陣屋の一部は新谷小学校の敷地に「麟鳳閣」として保存されています。現在の国道が矢落川の対岸をバイパスしている為に、町の中は静寂が町並みと共に保たれています。
新谷藩の親藩である大洲藩は江戸時代初期の元和3年(1617)加藤貞泰が伯耆米子藩より6万石で入封した事に始まります。しかし元和9年(1623年)に加藤貞泰は後継者の届けを出さないまま急死。嫡男の泰興が将軍に拝謁し相続を認められます。このとき弟の泰但(やすただ、後の直泰)は1万石分知の内諾を得て新谷藩の立藩を許されるのですが、これが大洲藩内に騒動を引き起こし、最終的に新谷藩は大洲藩内の分知ということで決着しました。しかしそれでも新谷藩主の本来の地位は大洲藩の陪臣の扱いですが、幕府は特別に新谷藩主を大名と認めていました。こうして新谷は藩主が9代230年続いて明治を向かえ今に至ります。
新谷藩を立藩した加藤直泰は喜多郡上新谷村に陣屋と家中屋敷31軒を置きます。家中屋敷は大久保川を挟んで川西・川東と呼ばれました。武家屋敷は後に83軒まで増えていきます。陣屋から矢落川にかけて真っ直ぐに南北幅6.6mの道が設けられました。現在の新谷小学校への通学路がそれです。
この道と交差する武家町の南に上の町・中の町・下の町からなる町人町が作られました。これは現在の商店街が踏襲しています。侍屋敷と町人町は東西に走る水路で一直線に区分されます。この水路は火災時に陣屋内の池の樋を抜き、この水路に注水して消火用水にあてるためのものでした。陣屋町の人口は725人、家数は134軒でした。
武家屋敷前の広い道は参勤交代時の勢揃いの場として造られた
新谷藩・町人町にの家並み
廃業してしまった神耳酒造の建物は商店街のランドマーク
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