大分市の南側近郊、宮崎へ至る国道10号線が大野川を越えたあたりに、戸次(へつぎ)という地区があります。戸次は古代より荘園としての記録があり、町場化し始めたのは江戸時代後期ごろとされています。田園地帯の中に形成された街村である中戸次・戸次本町付近には、江戸時代から残された伝統的な家並みが奇跡的にも残されていました。近世以前は戸次市村と呼ばれていおり、地名から早い時期から「市」が立っていた事が推測され、それは大野川や日向街道が通る地理的要素からも十分考えられるものであります。ちなみに藩政時代の戸次は豊後府内藩(今の大分市)では無く臼杵藩領でした。
先の地理的要素から交通の要衝へと発達した戸次市村は、臼杵藩による保護育成によって急速に発展。大分城下の南口の町としてその規模は城下の鶴崎を凌ぐほどだったと言われています。旧日向街道を踏襲する国道10号線は、戸次の町並みを大きく迂回して整備された為に、古い家並みが残るきかっけとなったようですが、町の価値が見直され始めたのはつい最近になってからの事で、かつ町並みを走る旧道も渋滞回避の為の裏道として交通量がかなりあります。
中戸次・戸次本町に約500mに渡って断続的に残る、妻入り・平入りの商家や屋敷構えの旧家は、平成14年から始まった修景整備事業によってギリギリ往時の姿を取り戻しつつあります。
それら町並みの中心に建ち、かつ戸次のシンボル的存在でもある帆足家旧宅。豊後守護職大友氏の家臣にはじまり、江戸時代は臼杵藩の戸次市村を預かる庄屋となった帆足家は、江戸末期ごろから酒造業にも進出して富を築いた旧家です。
大分市に寄贈され、約3年かけて修復された建物は新築そのもので、やや歴史的な面影は失われてしまったものの、重厚な邸宅の他、酒蔵資料館や美術館、レストランなども併設した「帆足家本家富春館」として今もなお町の中心的存在です。
帆足家は画家も輩出しています。豊後竹田の文人画家、田能村竹田は帆足家との親睦が暑く、帆足家の為にいくつもの詩画を残しています。さらに帆足家九代統禮の四男
である熊太郎(帆足杏雨)は竹田に入門し、やがて南画の大家となりました。
国道10号線沿いには大型店舗が立ち並び、戸次の町並みのすぐ裏手まで迫っている為に、戸次の商店街は早くにその姿を消し、もしくは当初からなかったのか?整備保存された家並みは純粋な住居地区として静かに佇んでいます。したがって町並み整備と共に、流入する通過交通の規制が今後の課題ではないかと思われます。
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