大分県大分市と佐賀関半島を挟んだ反対側の付け根にある臼杵という町は、古くからの城下町として栄えた町で、現在も数多くの史跡や町並みが町中に残されています。
臼杵は豊後水道に面した、臼杵川河口の沖績地上に形成された町で、戦国時代にキリシタン大名である大友宗麟によって丹生島に城が築かれた事に始まります。
大名がキリスト教に入信するのはその教えよりも、南蛮貿易の利権を手にする為で、その為大友氏の城下町であった臼杵は南蛮貿易港として急速に発展し、町場は日を追う事に拡大。埋立に次ぐ埋立で城下町が拡大していく一方、軍事的な意味合いを持った丹生島は地続きに成り、やがて内陸に飲み込まれてしまいます。
キリスト教布教の中心となった臼杵には協会をはじめ学校や病院が建てられましたが薩摩との戦火で消失してしまいます。
関ヶ原の戦い後、美濃郡上八幡から稲葉貞通が5万石で入封し、臼杵は近代的な城下町へ整備され現在の区画になりました。ちなみにこの臼杵藩の稲葉家は、春日局系の譜代稲葉家とは異なり、織田信長時代から続く外様大名ですが、遠祖は同じでかつこちらが宗家という事です。臼杵藩稲葉家は15代続いて明治を向かえました。
臼杵の商人町は大いに栄え「町八町」と呼ばれますが、その後も町は増え続けていきました。現在、周囲を市街地に囲まれた旧称の新町から浜町にかけての一画が伝統的建造物保存地区になっており、酒蔵を中心とした白壁の街並みが見られます。
臼杵を代表する風景である、町人地区から武家屋敷地区を結ぶ「二王座通り」の石畳の道沿いにも歴史的建造物と小路が迷路のように入り組んで散策を満喫できます。
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