日田は山々に囲まれた盆地の町。筑後川に通じる三隅川をはじめ花月川など大小支流が流れる水郷の町。古くから陸路・水運の要衝でもあった日田は豊臣秀吉時代の蔵入地を経て江戸時代は幕府直轄地「天領」となります。天領日田を管理するのは日田代官、正式には西国筋郡代といいます。全国の天領で「郡代」が置かれたのは3カ所のみ。
飛騨高山・美濃・西国日田。いかに日田が九州の拠点として重用視されていたか分かります。
ところで江戸期には日田の町名はありません。日田郡に属していた豆田町と隅町及び周辺地域を総称して日田と呼んでいました。豆田は中世城下町を基盤に日田代官所が置かれて陣屋町を形成。町内在住の有力商人が周辺村の役人を務め「役所の町豆田」と呼ばれていました。一方隅町は三隅川の河港を持ち「商人の町」として発展しました。物資の集散地として商業から始まり、酒・醤油・油などの製造業へ、蓄積された資本を元に貸し金業を行うなど九州を代表する一大市場へと発展していきます。
日田を繁栄させたのもうひとつの要は幕府公認の商人「掛屋」。掛屋は税金の徴収と公金を運用するいわば民間の公的金融機関。公金の運用先は幕府の公共事業か大名への貸付に限定。日田の掛屋は莫大な運用益を得ました。
しかしそれも徳川の時代が終わると既得権益や権威を失った日田の町は急速に衰退していきます。その後近代化は進まず産業構造は江戸期のまま停滞したままでした。
明治後期に豆田・隅両町が合併し日田町が誕生します。その後市域の町名を変更、豆田と隅の地名は1区画に残されました。隅町は旅館街の道を歩み、城下町の豆田町には酒蔵をはじめ商家や町家の古い街並みが残っています。
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