日田は「天領の町」として知られ、日田駅北側、花月川沿いに古い町並みが残る豆田町が観光地として知られていますが、駅南側の隈町にも古い町並みが残されていま
す。隈町は豆田町とはまた違い、日田温泉として旅館やホテルが立ち並んでいます。
日田は山々に囲まれた盆地の町で、筑後川に通じる三隅川をはじめ花月川など大小支流が流れる水郷の町として古くから陸路・水運の要衝として発展し、豊臣秀吉時代には蔵入地となり、江戸時代には幕府直轄地「天領」を支配する政治行政の中心地となります。この天領日田を管理するのは日田代官、正式には「西国筋郡代」と言いま
す。全国の天領のなかで「郡代」が置かれたのは3カ所のみ。飛騨高山・美濃・西国日田。いかに日田が九州の拠点として重用視されていたか分かります。
ところで江戸期には日田の町名はありません。日田郡に属していた刃連(ゆきい)郷豆田町と夜明郷隅町及び周辺地域を総称して日田と呼んでいました。豆田は中世城下町を基盤に日田代官所が置かれて陣屋町を形成。町内在住の有力商人が周辺村の役人を務め「役所の町豆田」と呼ばれていました。一方隅町は三隅川の河港を持ち「商人の町」として発展します。物資の集散地として商業から始まり、酒・醤油・油などの製造業へ、蓄積された資本を元に貸し金業を行うなど九州を代表する一大市場へと発展し、さらにその財力を基盤に金融の町へと進みます。
「商人の町」と呼ばれた、天明8年の隈町の人口は1120人、家数は124軒あり、酒蔵は13軒あったと言われ、当時の繁栄ぶりが伺えます。しかし現在の隈町地区に酒蔵は無く、商店街にも人通りは見られず、旅館街としても活気が感じられない印象を受けますが、春から夏にかけて鵜飼で賑わう三隈川沿いに建ち並ぶ旅館には風情があ
り、商家が立ち並ぶ通りの一つ裏手には寺町を思わせる寺社が集まる通りがあるな
ど、観光客が少ないものの予想以上に見所があり驚かされました。
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