大分市から国道10号線を南に約20kmほど南下した場所に犬飼という町があります。大野川を挟んだ対岸を走る国道からは、長野県の木曽福島のように川の断崖にへばりつくように建てられた家並みが目に飛び込んできます。こちらから見ると3階建てですが、対岸の道沿いには1階建ての平屋に見えるあの造りです。
犬飼は古くから大分と宮崎を結ぶ日向往還と大分と熊本を結ぶ肥後往還が分岐する要衝で、それぞれの道は現在の国道に踏襲され、なかでも大分と熊本を結ぶ動脈としては、現在高規格の自動車専用道路「中九州横断道路」が建設中で、犬飼には部分開通した同線のICが設けられています。
もっともこの場所が町場化するのは、ずっと後の江戸時代に入ってからの事。
もともと人家の少なかったこの地に、豊後竹田の岡藩が藩主中川候の参勤交代船の船着場をこの地に移した事に始まります。犬飼には藩の屋敷・御茶屋(本陣)・蔵所などが設けられ岡藩の表玄関として整備されました。水陸交通・物流の要衝として急速に発展した犬飼には犬飼奉行や御船頭役、奉行手代など17名の役人が置かれます。
犬飼という地名は岡藩主中川候が狩猟の際に、猟犬が病にかかり、この地で看護したことに由来するといいますが、年代的にも俗説であると言われています。古代部民である犬飼部に由来するというのが定説となっていますが。しかし、岡藩によって生まれた町である為に、藩をあやかってそのような説が造られたのでしょう。
河港町として栄えた犬飼でしたが、大正6年の国鉄犬飼線(後の豊肥本線)の開通によりその使命を終えます。それでも鉄道がこの犬飼で終点であった時期は、水運を鉄道が引き継ぐ形で犬飼の役割は変わりませんでしたが、鉄道の延伸や、自動車交通に合わせた国道の近代化は大野川の対岸や町を避けるように迂回して整備され、町の衰退が明白になります。それが結果的に犬飼の町並みを残す要因にはなったのですが、時事の連続性が良くなかったゆえに、古い町並みとしては中途半端なものとなってしまったのは非常に残念なところです。旧道沿いに断続的に建ち並ぶ、漆喰に塗り込められた平入りや妻入りの商家建築はいずれも明治・大正期以降に建てられたものか。寂れた町の中心商店街を形成し、今なお現役の店舗を営んでいます。
|