「モリ(森)もモウリ(毛利)も似たような読みだから、毛利を名乗れ」
明智光秀の謀反により京都の本能寺にて織田信長が討たれた際、羽柴秀吉は中国攻めの最中で、毛利氏との攻防を繰り広げていました。信長の死を知った秀吉は、賊臣明智光秀の追討に向かうべく急遽、毛利輝元と和睦を結びます。この際、毛利側に人質として送られたのは、秀吉子飼いの家臣であった森高政。
しかし毛利輝元は森高政の資質を気に入り、毛利の姓を与えました。この毛利高政が築いた城下町が大分県最南端の市である佐伯です。
関ヶ原の戦いで、毛利高政は初め西軍に属していたものの、途中で東軍に寝返り徳川家康より所領を安堵されました。その後天領日田の代官を経て豊後海部郡に2万石で封じられます。当初は現在の南海部郡弥生町上小倉付近にあった中世佐伯氏の山城・栂牟礼城(とがむれじょう)
に入りましたが、その後現在の佐伯市中心部にあたる番匠川河口の八幡山に佐伯城を築き、麓に城下町を開きます。
佐伯湾は大入島が天然の防波堤を成す良港で、城下町が建設された旧塩屋村も、古くから塩田により栄え「塩屋千軒」と称されていました。
こうして、佐伯藩毛利家は12代280年続いて明治を向かえます。
南北に翼を広げた様な姿から鶴屋城・鶴が城とも称された佐伯城は、八幡山の山頂に
建てられていましたが、平時においては不便この上なく、山麓に三ノ丸が建てられてからは、ここで行政が行われました。現在三ノ丸跡地には私立佐伯文化会館が建設され、会館の入り口には「黒門」とも呼ばれる櫓門が残されていいます。この付近を通称地名で大手前と呼び、八幡山の麓は武家町でした。この付近は「歴史と文学の道」と呼ばれ、藩主毛利家の菩提寺である臨済宗養賢寺、明治の文豪国木田独歩館を初め長屋門や土塀など武家屋敷の遺構が残されています。
一方、国道の東側が町人町でしたが、城下町の面影は何も残されてはいませんでし
た。もともと2万石の小藩だった事に加え、時を経て、昭和に入ると海軍の町として発展したがために、米軍の無差別爆撃を受けて焦土と化してしまったのです。
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