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中川氏7万石の城下町・豊後竹田の中心市街南西側に位置する玉来地区。JR豊肥本線の玉来駅が町の玄関口。この玉来地区には、白壁商家の家並みが残されていました。
町並みは旧肥後往還筋に沿って形成されています。国道が町の北側を迂回して造られており、旧往還筋は商店街の生活道路となっています。
玉来は竹田城下南の玄関口として発展した町で、古くは猫原(ねこはる)といいました。鎌倉時代ごろから街村を形成しはじめ、本町・横町・新町が成立しています。この頃から「玉来」と呼ばれるようになりました。やがて、竹田の後背地である四原をひかえた在郷町、肥後往還の宿場町として発展します。四原とは恵良原・葎原・柏原・管生、4地域の総称。玉来にはもう一つ日向国高千穂へ至る高千穂路が町の中心で肥後往還に合流しています。
やがて志賀氏房が飛田川の騎牟礼城に入ると、玉来は騎牟礼城の城下町的性格が加わり町は一層と発展しました。
しかし、関ヶ原の戦い後、竹田に7万石で入封した中川秀成は、現在の竹田市街にあたる新しい城下町を建設しました。京都を模して碁盤の目に区画された竹田城下には周辺在町から商家が集められ、この玉来からは53軒もの商家が竹田城下に移転させられます。藩はこの玉来に京都の島原・長崎の丸山を模して遊郭を開きますが、町の衰退を防ぐ事はできませんでした。さらに追い打ちをかけ、寛文4年(1664)の大火で商家は残らず焼失。その後一筋の街が再興されました。
現在残る家並みはおそらく明治期・大正期に建てられたもので、一部の商家は現役の店舗として修復が施されているものも見られる一方で、自然と朽ち果てるのを待つばかりの建物も多く見られ、町がどのような方向に向かおうとしているのか、つかめない所があります。城下町竹田近郊の白壁の町並みとして早期に修景保存される事を願わずにはいられません。
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