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真田氏の城下町松代から須坂へ向かう道の途中に若穂川田という集落があります。
国道403号線は一部区間で谷街道の名でも呼ばれていますが、この「谷街道」という名称は明治に成立した”長野県”によって名付けられた名称で、須坂の手前にある福島宿までは
「北国脇街道・松代道」と重なります。若穂川田は松代城下を出て最初の宿場町で、その遺構が長野電鉄・信濃川田駅の南に残されていました。
若穂という冠称は長野市に編入される前、昭和34年の町村合併で生まれた旧町名で、合併した4か村の内の3か村の頭文字から組み合わせて名付けられた地名でした。
川田村は江戸期に農村中心の東川田村と町場を中心とした町川田村に分村し、慶長16年に北国脇街道・松代道の整備と共に宿場町・川田宿として成立します。当初は小屋敷(古町)という場所にありましたが、元文4年の千曲川の洪水で壊滅。現在地へと移転します。
宿は東の下横町からカギ形に右折して本町を通り、またカギ形に左折して西の上横町へと出る、両側を「桝形」で挟んだ「コ」の字形に形成されています。川田宿の家数は116軒、人口は511人(慶応3、4年改帳記録)。大名や一般人の宿泊は少なく、物流が中心だったようで千曲川の渡(市村の渡・屋代の渡)が船留(運休)の際に取扱量が増えていきました。
かつての宿場町の中心である本町地区までは何の案内表示もありませんが、石畳が敷かれた本町通りに辿り着くと、宿場の東西の桝形出口には常夜灯(?)
が整備されていました。農間余行として小さな宿場町では当然ですが、街村の形態を取っている以上に連続した家並みはありません。しかし、北村家と西澤家の2つの旧家が想像以上のインパクトを与えています。西澤家は江戸期を通じて本陣と問屋を務めた家で、その脇には高札場も現存(復元?)しています。 |
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北村家の長屋門 |
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本陣と問屋を勤めた西澤家邸 |
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西澤家邸の脇に建つ高札場 |
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