長野市の近郊、上信越自動車道・長野ICのすぐ南側に近世の城下町・松代町があります。松代は真田家10万石の城下町でしたが、真田家の城下町としては関ヶ原の戦いで、徳川軍と戦った真田幸村時代の上田城の方が知名度があります。
松代は三方を山に囲まれ、西口を神田川が塞いで千曲川に流れ込んでいる、天然の要害で、戦国期に北信の拠点として相応しい城下町です。
長野電鉄・松代駅のすぐ目の前に広がる海津城址の石垣。戦国期の名勝・武田信玄の海津城は有名ですが、武田氏の滅亡後は織田信長の家臣、森長可が封じられますが、武田の残党に苦しめられます。信長が亡き後、越後上杉氏や豊臣家臣が海津城を支配しますが、慶長5年に森長可の弟、森忠政が徳川家康に請うて海津城に入りました。そして兄長可を苦しめた武田残党への復讐の機会を誓って「待城」と改めます。
やがて慶長8年、家康の六男・松平忠輝が入り、不吉な「待城」を改め、松平の一文字を取って「松城」としたのです。忠輝はその後、越後高田60万石の大大名となりますが、いろいろな騒動で改易。ちなみにこの時代ではまだ「海津藩」ないし「川中島藩」として分類されます。
その後2回の領主変遷の後に、上田より真田信之が13万5000石で入封しますが、3代藩主をめぐる後継者争いを解決するために、上州沼田領3万5000石を文封して沼田藩が成立。以後、松代藩10万石は10代続いて明治を向かえます。
松代藩は信濃で唯一10万石を有する大藩でした。参考までに松本藩7万石、上田藩6万石、飯田藩5万5000石です。
真田氏は城下町を西から入って直角に折れ曲がり北に貫通する北国脇街道沿いに町人町を置き、その外側に武家町を配します。そして武家町と町人町の間には寺社を並べて寺町としました。(北国脇街道・松代道は明治に谷街道と改められます)
城下の伊勢町、中町、荒神町では毎月六斎市が立ち、その他木綿市や糸市も開かれていました。松代の町人町の家数は388軒(寛文11年)、人口は2,000人でこれに真田家の家臣とその家族4,000人、町外町(近郊町)の人口を会わせると、実に1万人に近い人口を有する城下町だったのです。
しかし、信濃国内の県再編で最初の県庁は幕府陣屋のあった中野、続いて善光寺門前の農村地帯であった長野に移され、ここに「長野県」が誕生します。松代も県庁誘致に動きましたが叶いませんでした。そしてその後は政治の舞台だけではなく、経済的にも徐々に斜陽が始まります。
多くの城下町では、広大な敷地を持つ武家屋敷が、その後官公庁の施設や学校、工場や細かく裁断されて分譲されていく中で、その遺構すら残らない状況ですが、松代では実に多くが当時のままで残されていました。その事からも松代が表舞台からいかに早く消えていったかが分かります。
町の南郊外の象山の地下に大規模な地下壕が残されています。これは太平洋戦争末期に本土決戦に備えて、大本営移転計画の為に掘られたものの、結局完成を見る前に終戦を向かえてしまいますが、時を経てこの松代が暫定的にも日本の中心地になっていたかも知れません。
しかしこの地が選ばれたのは何かの偶然だったのでしょうか?
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