北国街道の脇街道・松代道は松代城下を出発し、川田宿を経て福島宿から千曲川を渡り、この長沼宿を経て本街道へ合流しました。
かなり古い時代に、千曲川流路に沿って長い沼のような地形であった事が、その地名の由来と言われますが、北の浅川と河川に挟まれた低地の為に水害に見舞われる事が多く、石垣、土蔵、半二階など洪水に備えた住宅が多い事で知られています。
戦国時代には地頭島津氏の長沼城が築かれ、その後は武田信玄の手中に入り、北信濃における重要拠点の城下町として発展します。江戸期には、大坂の陣で功績をあげた佐久間勝之が1万8000石で入封して長沼藩が成立しその城下町となりますが、佐久間家は4代で改易されます。陣屋が置かれていたのは現在の赤沼地区です。
そうした宿場町、城下町の歴史を持つ長沼ですが、現在その地名は無く、唯一長沼郵便局にその断片を残すだけとなっています。長沼宿には本陣や脇本陣は無く、また宿場町と言われるような連続した家並みもありません。しかし南北に伸びる旧街道は幾度も折れ曲がり、多くの桝形から成るジグザグ道の遺構がハッキリと残されている事に驚かされます。
長沼という地名が失われるのは実は宿場町成立時に遡ります。慶長16年、北国脇街道・松代道が長沼村を通り、これに合わせて長沼宿が指定されます。長沼村には内町、六地蔵町、上町、栗田町などが生まれ、やがて長沼という地名は上記4か村の冠称ないし、地域の総称となっていったのです。
明治22年の町村合併で長沼村は一時復活しますが、昭和29年の長野市への編入で、再びその名は消えました。編入前の大字であった、大町、穂保、赤沼の地名が引き継がれました。
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