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渋温泉は一般に湯田中・渋温泉郷と総称される地域の中心です。温泉郷の玄関口でもある湯田中温泉より一歩奥にある渋温泉は、夜間瀬川支流・横湯川沿いに木造3〜4層建ての旅館が建ち並び、昔ながらの情緒をたたずむ温泉街として知られています。源泉数は40箇所あり、湯温は実に70〜96度と高温で、群馬県の草津温泉と泉質は違うものの「熱い湯」を売り物にしています。
信濃の奥座敷として古い歴史を持つ渋温泉は、神亀年間に僧行基によって発見されたと言われる、1300年もの長い歴史を持つ温泉です。戦国期に武田信玄によって開基された横湯山温泉寺によって経営され、現在の渋温泉の基礎が作られます。今も残る9箇所の外湯はこの時から始まったらしく、九湯巡りは九労(苦労)を流して念願成就と不老長寿の御利益があると言われています。
さらに江戸時代になると、松代藩の保養地として藩主・真田公を始め、重臣や藩士も多く訪れるようになり、いくつものエピソードを残しています。
湯田中・渋温泉郷は志賀高原の玄関口で、その谷口に開けた温泉地であり、古くから上州方面との交易も行われていました。競合する他の街道との係争で、物資の往来は制限されましたが、名湯草津温泉とさらに長野善光寺詣をセットにした温泉ツアーを江戸期からすでに企画し、多くの湯治客や参詣客を誘致したのです。
現在の渋温泉には、木造多層階旅館も1/3ほどしかありません。渋温泉は明治初期の大火で全焼し、江戸期の建物は一部土蔵を除いて全て失われてしましました。
最も古い建物が、かつて真田家の本陣を勤めた「つばたや旅館」で、その他の木造旅館はみな昭和期に建てられたものです。「本陣」とは行っても、宿場町のそれでは無く、あくまで松代藩の藩主や高官が滞在した指定旅館であり、「脇本陣」などは存在しません。
渋温泉の伝統的建造物としては文化財に登録されている「金具屋」旅館がありますが。これもまた同じく昭和初期に建てられたものですが、それでも十二分に価値のある建物です。現在多くの建物が鉄筋に建て替えられつつありますが、それでも温泉地自体がコンパクトで、大型の観光旅館は無く、ファサードは制限されており、石畳を下駄を鳴らして散策するにはこれ以上の風情は無い温泉街の姿を残していました。
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渋温泉で最も古い明治初期築のつばたや旅館・文化財級の建物だが申請はしない |
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数少なくなった木造旅館の多くは昭和初期の建物 |
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